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下心 3

 サンゴの陰で睦みあう人魚たちの姿が、まばらになってきた頃。  大きなサンゴの根元に引きずりこまれて。ネロの手で、シェルは太い幹に押しつけられた。  戸惑って目をみはっているシェルを、紅いぎらぎら光る目でのぞきこんで、ネロが唇を重ねてくる。  噛みつくように。   (いやだ……っ)  乱暴にされるんだと思った。  ダリオに襲われたときの光景がフラッシュバックして、背びれが震えた。叫び声をあげて、めちゃくちゃに暴れて逃げ出したかった。  きっとネロは、この甘ったるい匂いにおかしくなってしまったんだ。あの、たむろしていたオスの群れみたいに。僕を貪り食うつもりなんだ。欲望に狂わされて、衝動のままに。    でも、ちがった。  そっと押し当てられたネロの唇は、やわらかくて。  シェルの強ばった唇を、そっと、包みこんでくれる。    何度も。  何度も。    焦ったように喰いついてくるのに。  するどい牙でシェルを傷つけないように、シェルを怖がらせないように、手加減してくれているのがわかる。ダリオの力任せなキスとは全然ちがう。  呑まれてしまいそうだった。  求められることが、こんなに心地いいなんて。  身体の芯が熱くなる。くらくらする。気づいたら、ネロの肩に腕をのばして抱きついて、シェルからも唇を近づけていた。  ネロがちょっと驚いて、嬉しそうに笑った。水を吸おうとシェルがゆるめた唇の隙間から、熱いネロの舌が潜りこんでこようとする。 「あっ」  おどろいて、シェルは小さな泡を吐いた。  その唇の隙間を見逃さず、ネロが舌を挿しこんでくる。  奥まで入りこまれて、うまく逃げられないまま絡めとられて、嵐の小舟のように翻弄される。  頭がじんじんして、下腹部が疼いて。崩れ落ちそうになったシェルを、ネロの腕が抱きよせた。背中を這うネロの手が、シェルの背びれの付け根を指先でそっと撫でた。 「んっ……」   (なに、これ)  背びれがビクッと痙攣した。その震えが、尾びれの先まで駆けぬけた。   (僕の身体、なのに)  こんなに敏感だなんて、シェルはたった今まで、知らなかった。  ネロの大きな手が背びれを撫でる。下腹部にぐいぐい押しつけられるネロの膨らみが、シェルのスリットを疼かせた。  甘い痺れがさざ波になって、シェルの全身にひろがって、理性が溶けていく。強引にシェルの腰を抱きよせて、ネロが自分の下腹部を突き上げてきて、その動きが何を意味しているのか、ネロが自分をどこへ連れて行こうとしているのか、シェルにもさすがにわかった。  僕はまだ、知らない場所。  ふたりじゃないと行けない場所。   (だめだ、怖い)    なのに、見てみたい気もする。  ネロが手を引いてくれるなら。  いつもみたいに。  シェルが呆れるほど臆病なのをわかっていて、強引にひっぱりあげて。  そうやってネロが見せてくれた景色は、いつでもシェルの空想がかすんでしまうほど鮮やかで、魂が震えた。おびえて閉じこもっていた自分が、とてもちっぽけで、笑えてしまうくらい。  どうしよう。  ネロに、ついていきたい。  このまま流されてしまいたい。  ネロならきっと、僕にひどいことなんてしない。  きっとまた、せまい岩陰から果てしない海へ連れ出してくれる。   (……だけど)    気になっていることが、ひとつだけあった。  熱い舌を引き抜いて、浅く水を吐いて、ネロの熱っぽい紅い目がうっとりシェルを見つめた。  肩で呼吸しながらネロの胸に倒れこんで、シェルは自分を映す紅い目を、悲しい気持ちで見つめ返した。 「……慣れてるんだね、ずいぶん」  みじめだった。  だから、わざと冷たい言い方をした。ネロの心臓に爪を立てたかった。ささやかな抵抗として。  ネロの顔がこわばった。  その目が泳いだのを見て、甘く(ほて)っていた身体から一気に熱が引いていった。  ネロが言い訳を探しているときの目だ。変わってない。  やっぱり。   (ネロは、慣れてるんだ)    こういうことに。  当然だった。  ネロほど魅力的なオスを、シェルは他に知らない。  メスたちが放っておくはずがない。   (恋人がいたんだ、谷底に)    今もいるのかも。  いないわけがないよね。  僕が書庫の奥でめそめそ泣いて思い出にすがっていた間、ネロはとっくに前に進んで、谷底のメスと愛しあってた。   (じゃあ、どうして?)    どうして僕は今、ネロの腕のなかにいるの?   (……この、甘ったるい匂いのせいだ)   「あ、あのさ、シェル」  ネロが困った顔で、しどろもどろになった。  尾びれをフラフラゆらすのも、ネロが必死にシェルの機嫌をうかがおうとしているときの癖。 「言い訳、させてくれ」 「いいわけ?」  ほらね。  カチンときて、シェルは思わず眉をあげてネロをにらんだ。   「いいよ、なんの言い訳?」    恋人がいること?  恋人がいるのを隠してること?  恋人がいるのに、僕と交尾しようとしてること? 「は、はぁ!? 恋人!?」  ネロが尾びれで砂をまき散らして、焦ったように首をふった。   「いねえよ、そんなもん!」 「なんで隠すの?」 「隠してねーし!」 「怒らないよ、べつに」  ネロがメスにモテたって。  僕よりずっと、先に進んでいたって。  シェルには関係ない。  ウソをつかれるほうが、ずっと傷つく。   「聞けって、シェル!」  シェルの肩を両手で掴んで、ネロがのぞきこんできた。  シェルの目を見つめて、ゆっくり、言い聞かせるように言った。   「恋人なんて、俺にはいない。今まで、ひとりも」  へぇ?   「それにしては、ずいぶん」 「そ、そりゃ経験がないとは言わねーよ。仕方ねーだろ。谷底で生きていくには必要だった。でなきゃ誰が、好き好んで」 「なるほどね?」  顔をそむけて、シェルはちいさく泡を吐いた。  悲しくて、海面へのぼっていく泡がにじんで見えた。 「なあ、シェル。聞いてくれ」    ネロの必死な目が白々しかった。  ネロの指が肩に食いこんで、痛かった。 「俺から誘ったことは一度もねえよ。全員名前も知らないし、顔だって覚えてないし」 「なにそれ」  自分の耳が信じられなくて、シェルはネロをまじまじと見つめ返した。 「名前も知らない相手としたの?」  しまった、とネロが目を泳がせた。 「あー、いや、その」 「どういうこと? どうしたらそんなことになるわけ?」 「えー、えーと、な、なりゆき? 消去法的な?」 「遊びだったってこと?」 「そ、そーそー! それ! しつこいから仕方なくっつーか、処世術っつーか? 谷底では必要なんだよ。好きで抱いたヤツなんてひとりもいない。いるわけねーじゃん、だって俺は」 「……ふーん、そう」  自分でも、ゾッとするくらい低い声だった。   (遊びだったんだ)    巨大な流氷で殴られた気分だった。 (ネロは、遊びでそういうことができる人魚だったんだ)    ショックだった。  一緒に暮らしていた頃のネロは苛烈なところもあったけど、一本芯の通った、まっすぐでやさしい人魚だった。少なくとも、シェルにはそう見えた。 (僕、なにも知らなかったんだ。ネロのこと)    ズキンと心臓が痛んだ。  あるいは、谷底の世界がネロを変えてしまったんだろうか。  この口ぶりだと、ひとり、ふたりの話じゃない。  それは、また。   「ずいぶんと、お盛んだったんだね?」    ネロの顔がこわばった。  ネロの肌は青灰色なのに、みるみる青ざめていくのがわかった。   「待て、待て、待て、シェル! そういうことじゃなくて!」 「いいよ。わかってる。、なんだよね?」  僕は最低な人魚だ。  わざとそんな言い方をして。  ネロが嫌がるとわかっていて、ネロを傷つけるために。   「……何が言いたい?」    ネロの声が、ゾッとするほど低くなった。    

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