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下心 4
水がピンと張りつめて。
気圧 されてしまいそうだった。
谷底の話は、ネロには禁句。
正確には「浅瀬の人魚に谷底の話をされる」ことが、ネロは我慢できないらしい。
ネロの肌は、浅瀬の人魚たちよりもずっと色が深い。
力強く水を蹴る漆黒の尾びれだって、シェルたちのひらひらゆれる尾びれより、ずっとすっきりとしなやかで、はやく泳ぐためだけに無駄を削ぎ落としたサメやシャチの尾びれに近い。
指先の鋭利な爪も、水を切り裂く大きな背びれも、笑うと口の端からのぞくするどい歯も、すべてがこのあたりの人魚たちとは違っていて、それが谷底に暮らす人魚の姿なのだということくらい、シェルも知っていた。
みんなが恐れて不気味がるネロの姿を、シェルが怖いと感じたことは一度もない。
でも、外見のせいでネロが嫌な思いをしてきたことも知っている。だからシェルはふれないようにしてきた。ネロが嫌がるから。でももう止まらない。
「ネロは、変わったよね」
さっきのケンカだって、ふつうは流血沙汰になんかならない。
ネロの血の気が多いのは知っていたけど、本当に噛みつくとは思ってなかった。シェルが止めなかったらダリオは死んでいた。そんなことする人魚、ここにはいない。
「なんだ? 谷底の連中は、野蛮な怪物だって? すっかり上層のクソ差別主義者らしくなったじゃねえか」
「ちがう! 優劣があるなんて、僕は思ってない!」
本当のことだ。
浅瀬も谷底も、棲む場所にあわせてカタチを変えただけ。
大昔、人魚が浅瀬をはなれた時代に、暗闇をえらんだ人魚たちが谷底の種族になった。
そう、巻貝の記憶は歌っていた。
浅瀬の種族も谷底の種族も、もとはおなじ人魚たち。笑ったり怒ったり落ちこんだり、自分となにも違わない。ネロと一緒にいたシェルはよく知っている。見た目の差異だけで悪魔だのバケモノだのと騒ぐ浅はかな人魚たちと一緒にされるなんて、我慢できない。
だけど。
にぎりしめた手のひらに、爪が食いこんだ。
(……怖かったよ)
目をギラギラさせて、するどい歯を剥き出したネロが。
他の人魚の血を浴びて、楽しそうに笑うネロが。
シェルの知っているネロじゃ、なくなってしまったみたいで。
「俺が、怖いんだな」
「そうじゃなくて」
「だから触れられるのも嫌なんだろ、俺には」
「ちがう、僕はっ」
突然、ネロが笑いだした。
背中をのけぞらせて、腹の底からしぼりだすように。
笑っているはずなのに、泣いているような顔で。
「けど、これが今の俺だ。ああ、そうだな。谷底の流儀ってやつさ」
ネロの手がのびてくる。
その手で無理やり抱きよせられて、ネロが強引に唇を重ねてきた。
乱暴なのに、そのキスは泣きたくなるほどやさしくて。
やっぱりネロだ。変わってない。
僕が好きになったネロ。
「……逃げろ、シェル」
背中のサンゴにもたれかかって荒く水を吐いているシェルを、ネロの紅い目が見つめた。苦しそうな、もどかしそうな顔で。ちょっとゆがんだ、おかしな顔。笑おうとしているらしかった。
「今ならまだ、逃がしてやれる」
(嫌じゃ、ない)
嫌なわけない。
けど。
シェルはうつむいて、唇を噛んだ。
(僕はきっと、大勢のうちの、ひとりなんだ)
ネロが谷底で何をしていたって、シェルは口出しするつもりなんてない。
シェルはそこに居なかった。
ネロを縛りつけられる理由なんて、シェルにはない。
ただ、つらかった。
ネロの特別にはなれないと、突きつけられたのが。
(僕が、変わるから)
この甘ったるい、いやらしい匂いにネロも当てられてるだけ。群がってきたオスたちと一緒。
……一緒?
ふと浮かんだ考えに、シェルの尾びれがゆれた。
(もしかして)
今なら、できるかもしれない。
ネロを、僕だけのものに。
ネロに愛されて、ひとつになる。
ずっと好きだった。もう逢えないと諦めてた。
(けど、今夜なら……)
ズルい考えだった。
でも今夜のネロの目には、シェルしか映っていない。
ネロの心のなかから他のメスを全員追い出して、シェルで塗り替えてしまえる。
ネロの腕に抱きしめられて、尾びれをからめて、キスをして、もっと深い場所で一つになって……今なら、それができる。
きっとこれが、最初で最後のチャンス。
この忌々しい、甘ったるい呪いがネロを狂わせている、今夜だけが。
(それでいいの? 本当に?)
紅い瞳の反射の中から、青ざめた自分が見つめ返してくる。
(今夜だけネロに愛されて、また離れ離れになって。それで、僕は耐えられる?)
無理だ。
ネロの熱を知ってしまったら、きっともう、孤独には耐えられない。
書庫の暗がりに転がって、独りぼっちで寒さに震えながら、今度こそ、僕は泡になってしまう。
(むしろ、それでいいのかも)
このままネロと別れたって、けっきょく書庫の隅で砂に埋もれて泣いているだけ。
結果がおなじなら、夢を見て、何がいけない?
(今夜だけ)
本物のネロの、腕のなかで。
ドクンと心臓が鳴った。
下腹部が切なく疼いて、あたりの波に、甘ったるい匂いがひろがった。
ネロも気づいたらしい。紅い瞳の色が暗くなった。苦しそうに顔をゆがめて、衝動をやり過ごそうとしているらしかった。
鼻先をかすめた甘い匂いに、突然、シェルは思い出した。
(僕は、変わるんだ)
闇雲にオスを誘うのは、快楽のためじゃない。
この身体が交尾を求めるのは、新しい命を宿せるようになるから。
(僕の、おなかに)
自分の下腹部を見下ろして、シェルは手のひらでそっと触れた。
ネロに抱かれて、ここに、たっぷり熱を注がれたら?
(きっと残る。ここに、ネロの一部が)
どきどきした。
(ほしい)
もし、ここに宿ったら。
ネロと、僕の子ども。
その子のために、僕は生きていける。
顔をあげると、紅い目が苦しそうにシェルを見つめていた。
シェルの気持ちが決まったことは、ネロにも伝わったらしい。
ちょっと戸惑って、でも嬉しそうに、ネロが低くささやいた。
「いいのか?」
「うん」
「泣いても、逃がしてやれねえぞ」
「逃げないよ」
そっと、ネロの胸に寄りかかった。
「……僕も、ネロとしたい」
そう、ささやいて。
ネロのしなやかな胸に顔をうずめて、青灰色の肌にキスしてみる。
ぎこちない。ネロみたいにスマートには全然できない。
でも、ネロは喜んでくれた。
シェルをきつく抱きしめて、首筋に顔をうずめて甘噛みしてくる。
そのまま背後のサンゴに押しつけられて、ドキドキした。
ネロの紅い目が、じっと見つめてくる。熱に浮かされた、獰猛な目。期待して、身体の奥が甘く震えるのに。突然、どうしようもなく不安になった。
(こわい)
サメに追い詰められた小魚は、きっとこんな気持ちなんだ。
「ま、待って、ネロ」
「もうムリ」
「ちがうんだ。僕、その、はじめてで……」
覆いかぶさってこようとしていたネロが、一瞬動きを止めた。
シェルを見つめる目が細くなって、ネロが嬉しそうに笑った。
「へぇ?」
「笑わないでよ」
「笑ってない」
「笑ってるもん」
「興奮してんだよ。シェルに触れたオスがいたら、全員噛み殺しにいくところだった」
ネロの手のひらが、シェルの尾びれを撫でた。
シェルを安心させるように、そっと。
そのぬくもりが、じわじわシェルの熱を煽る。
「大丈夫。俺が教える」
「痛いのは、やだ」
「しねえよ。シェルの嫌がることはしない。安心しろ」
「やさしく、してくれる?」
「ああ。どろどろに甘やかしてやる」
そう言ってネロがくれた口づけは、本当に、溶けてしまいそうにやさしくて。
縮こまっていた心が、ほどけていった。
気づいたらシェルも腕をのばして、ネロの首に抱きついていた。
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