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変わる 2

 「シェル」   耳元で、ネロの声が聞こえた。  痛みに悶えているシェルをやさしく抱きしめてくれる。   「大丈夫だ、シェル。一緒にいる」 (ネロっ……)   「シェル。俺につかまれ」  ネロの声がやさしくて、抱きしめてくれる腕が力強くて。  痛みが少しだけ、楽になるのを感じた。  夢中でネロにしがみついて、その手がネロの背中に爪を立てているのに気づいた。 (ぬかなきゃ、ちからを)  どうやって。  どうやって。 「そのままでいい」  ネロの手のひらが、シェルの背中をやさしくさすってくれる。 「ぜんぜん痛くねぇよ。苦しかったら、俺の肩を思いっきり噛め。シェルになら肩を喰いちぎられたって俺は平気。な?」  ネロ。  ネロ。  やっぱり、ネロはやさしい。  ぼく、やっぱりネロがすき。  ねえ、ネロは、他のメスたちにもこんなにやさしいの? (そうだ、かわらなきゃ)  ぼくはかわらなきゃいけない。だって、もう独りぼっちにはなりたくない。ぼく……ネロの子どもがほしい……  焼け焦げるような灼熱と、バラバラに引きちぎられるような激痛は、やがて波のように引いていった。  ぐったりして、しおれた海藻のようにネロの胸に寄りかかっているシェルを、ネロがやさしく抱きしめてくれる。そっと背中をなでて、額にキスをしてくれる。  ゆっくり目をあけると、紅い目が心配そうにシェルをのぞきこんでいた。 「まだ、痛むか?」  ううん、と小さく首をふると、ネロが心底ほっとした表情でシェルを抱きしめて、シェルの髪に顔をうずめた。 「頑張ったな、シェル。すげえよ」 「……ネロ」 「どうした?」 「ぼくの尾びれ、まだある?」  ネロが小さく笑った。 「あるよ」  大きな手のひらが、尾びれをやさしく撫でてくれる。  くすぐったい。  ぞくぞくする。  もっと、ほしくなる。 「すげえ、きれい」  そっか。 (ぼく、かわったんだ)  何かが変化した感じは、しなかった。  あんなに苦しかったのに。  ウロコがぜんぶ剥がれ落ちて、骨という骨が肌を突き破っておかしな方向にねじ曲がっていると言われたって、ちっとも驚かないのに。   (でも、そういうものなのかも)  変わると言ったって、本当にメスになるわけじゃない。  人魚は、魚みたいにはいかない。命を宿せるようになるだけで、身体はオスのまま。だから、甘い匂いで誘うのだ。いやらしく。そう、あの歌は歌っていた。  顔をあげて、シェルは自分の尾びれを確かめてみた。  あの歌は、なんと歌っていたっけ。    尾びれの変色は、必ずおこる。  何色に変わるかはそれぞれ違うけど。  変わりきった人魚は、尾びれの先端まであざやかに色づいている。  ひらいたばかりのイソギンチャクのように。  陽の光を浴びた、ソフトコーラルのように。  侵しがたい美しさで、だれが見ても変わったとわかる。    ネロの腕のなかから少し浮き上がって、尾びれをゆらしてみて。  シェルは、凍りついた。   (……変わって、ない)  腰の境目からはじまった燃えるように鮮やかな紅珊瑚の色づきは、尾びれの半分ほどで中途半端にとまっていた。紅く染まった部分もよく見るとまばらでムラがあって、みすぼらしい。ちっとも「きれい」じゃないよ、ネロ。 (僕、失敗したんだ)   「……シェル?」    ふたたび腕のなかに倒れこんできたシェルを、ネロが心配そうに見つめた。 「どうした?」  シェルは黙ったまま、小さく首をふった。   (言えない)    変われなかった、なんて。    ネロがそばにいてくれたのは、僕が変わるから。変わった僕と、交尾したいから。変われなかった僕には、なんの価値もない。ネロは帰ってしまう。このまま捨てられてしまう。こんなこと、言えない……    視界がゆれて、涙がこぼれ落ちた。 「大丈夫だよ、シェル」  ネロがやさしく抱きしめて、シェルの目尻に口づけをしてくれる。頬をつたう涙を、熱い舌先がそっと舐めた。 「満月は今夜だけじゃない」 「まんげつ」 「月の力が、人魚を変えるんだろ? どこかで聞いたことがある」  ズキンと胸が痛んだ。 (バレてたんだ)  僕が、ちゃんと「変われ」なかったこと。  ますます涙があふれてきた。  ネロの熱い舌先が、また、そっとぬぐってくれる。 「泣かなくていい」 「だけど、変われなかった。これじゃ、交尾できない」 「満月はこれから何度でもくるんだ。焦らなくていい。狩りだって歌だって、初めてでうまくいくことの方がめずらしいだろ?」  なにそれ。  だったらさ。   「待ってて、くれるの?」    次の満月まで。  僕はまた、ネロに逢えるの?  ちがうよね。    シェルをのぞきこんで、ネロが笑った。 「ああ。いくらでも」  やさしい口づけが、シェルの唇をついばんだ。 (ウソつき)  わかってる。これは、やさしいウソ。  谷底に帰れば、ネロの遊び相手はたくさんいる。  今夜だけだった。  僕に与えられたチャンスは。  わざわざ谷底を抜けだして、こんな中途半端なデキソコナイに逢いにくる必要なんて、ネロにはもうないんだから。   (もう、逢えない)    ネロの胸に顔をうずめて、泣きながらすがりついた。   (いかないで)    おねがい、いかないで。  今夜だけでいいから。  ネロを引き留めておけるものは、僕には何もないけれど。 「そばに、いて」 「いるよ。ここに」  やさしく抱きしめてくれるネロを見上げて、シェルからキスをした。  ネロはちょっと驚きつつ、受けとめてくれた。  唇をはなして、からめた舌を名残惜しみながら引きぬいて。ネロがじっと、シェルを見つめた。 「……あのさ、シェル」   ドキッとした。 ――終わりにしよう。  あの朝、ネロに告げられた言葉がよみがえってきた。     

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