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第二話 水族館デート①
「ゴールデンウィークに水族館に行かないか?」
「へ?」
突然の伊織からの一言に、俺はつい先程まで頬張っていたクレープを落としそうになってしまう。
伊織が何気なく発したその言葉には、俺の度肝を抜くほどの威力があった。
それはいつもと変わらない放課後。伊織と並んで駅に向かっているときのことだ。普段と違うのは、伊織の部活が早く終わったことくらいで……。そんな俺の平凡な放課後は、伊織の一言で一変してしまう。
「水族館に、行かないか……」
伊織の言葉が理解できなくて、俺は小声でもう一度その言葉を繰り返す。
今まで伊織とは映画に行ったり買い物に行ったり、二人きりで出掛けたことは何度もあった。でも、今回の誘いは今までとは違う気がする。
伊織の頬はうっすら赤く染まっているし、照れくさいのだろうか。視線を泳がせている。
――なんなんだ。伊織、いつもと様子が違うぞ……。
伊織につられて、俺の頬まで徐々に熱を帯びていく。心臓の鼓動まで速くなっていき、肺が酸素をうまく取り込んでくれない。
なんだ、この変な雰囲気。どうしよう、どうしたらいいんだろう……。
俺は制服の胸のあたりをギュッと掴んで、立ちすくんでしまった。
「二人きりじゃなくて、翠と千颯も一緒に行こうって言ってるんだ。なぁ、碧音も来ないか?」
「え、えっと……」
なんだ。二人きりじゃないんだ。
伊織の言葉に俺は肩を落とす。てっきり二人きりで出掛けるものとばかり思っていたから。翠と千颯が一緒だなんて、想像もしていなかっただけに俺は内心すごくガッカリしてしまった。
「なぁ、碧音……」
不安そうな顔で俺のことを覗き込んでくる伊織。こんな顔をされたら断れるはずなんてない。俺は、こんな風に甘えてくる伊織に弱い。だって、普段しっかり者の伊織が見せるこんな表情は、きっと俺しか知らないはずだ。
俺は、そんな伊織の子供っぽさも好きだった。
「いいよ、行く」
「本当?」
「うん。水族館、一緒に行くよ」
「ありがとう、碧音」
嬉しそうに笑う伊織を見ると、俺まで嬉しくなってしまう。翠と千颯が一緒にいくことは予想外だったけれど、こんな嬉しそうな伊織の顔を見られた俺は、多幸感に包まれた。
「じゃあ、翠に連絡いれとくね」
「うん。わかった」
二人してホームに向かう下りのエスカレーターに乗る。帰宅時間の今は家路に向かう人たちで、駅の構内はごった返していた。
ムワッと漂う蒸し暑さと、地下鉄の独特の香りが鼻をつく。エスカレーターに揺られているうちに、俺はある考えに辿り着いてしまった。
それに気が付いた瞬間、顔から火が出そうになったから、俺は慌てて頬を両手で包み込む。
落ち着け、落ち着け、俺……。
何度も何度もそう自分に言い聞かすけれど、嬉し過ぎて叫び出したい衝動が込み上げてきてしまう。どんなに深呼吸を繰り返したって、この喜びは掻き消すことなんてできそうにない。
「これじゃあダブルデートじゃん」
伊織に問いかけてみたかったけれど、「はぁ? 何言ってんだよ」と笑われてしまうかもしれないと考えると怖くなってきてしまい、俺はその言葉を慌てて呑み込んだ。
ねぇ、伊織。これってダブルデートなの?
それでもやっぱり気になって、エスカレーターの一つ下の段にいる伊織の背中を見つめた。
俺が一緒に水族館に行くと言ったことが余程嬉しいようで、珍しく鼻歌なんて口ずさんでいる。伊織が幸せそうにしているのを見ることは、俺だってすごく嬉しい。でもなんだろう、心がザワザワする。
その原因を一生懸命考えてみたけれど、結局理由なんてわからなかった。
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