19 / 68
水族館デート⑪
「俺、今日ここで千颯に告白しようと思ってました」
「翠……」
「でも、千颯は伊織さんのことが好きだった。俺、千颯はずっと俺のことが好きなんだろうって、自惚れてました。超恥ずかしい」
そう言いながら鼻をすする翠を見ていると、俺は再び涙を溢れさせていた。
「翠が、翠が可哀そうだ……」
「あお、とさん……」
「翠はこんなにいい奴なのに、千颯の馬鹿野郎……くぅ、うぅッ……ふぇ……馬鹿野郎……」
「碧音さん。俺は大丈夫だから」
「翠が大丈夫でも俺は大丈夫じゃない! 伊織も千颯も酷すぎるよ。俺たちを利用するなんて。許せない、許せない……!」
「許せないですよね。わかります。でもきっとあの二人に悪気なんてないんですよ」
「悪気がない?」
「はい。だって、俺たちが自分たちのことを好きだなんて全く知らないんですから。だから、利用しようなんて思っていないはずです」
子供のようにすすり泣く俺の頭を優しく撫でてくれる。
俺は今日まで知らなかった。失恋がこんなにも辛く、苦しいものだなんて。今まで、失恋なんてしたことがなかったから。俺は、ずっと伊織だけが好きだったから。
こんなにも心が張り裂けそうなほど痛い。この灯台から身を投げることができたら、どんなに楽だろうかと考えてしまう程に……。
「泣かないで、碧音さん」
「……え……」
気が付いたときには俺は翠の腕の中にいた。今までこんな風に誰かに抱き締められたことがなかった俺の心臓が、一瞬止まった気がした。
薄いシャツ越しから伝わってくる翠の体温と鼓動。翠の心臓も俺の心臓と同じくらいドキドキしていた。
翠の意外と逞しい腕に、厚い胸板。顔に翠の髪がかかってくすぐったい。突然抱きしめられたという現実が受け止めきれずに、俺は身動きをとることさえできなかった。
「泣かないで、碧音さん」
「だって、翠も泣いてる」
「ううん、泣いてないです」
「嘘つき。泣いてるじゃん」
俺のシャツに温かな翠の涙が吸い込まれていく。俺が遠慮がちに翠の腰に腕を回すと、ギュッと抱き締め返してくれた。その力強さに体の力が抜けていき、俺はそっと翠の胸に体を預ける。
波の音と、翠の心音が混ざり合って心地いい。あんなに苦しかった胸の痛みが、少しだけ和らいだ気がした。
「よかった、翠がいてくれて……」
「え?」
思わず本音が口から零れ落ちた。
もし今日自分一人だけだったら、今頃どうしていただろうか。想像しただけでぞっとするようだ。
「ありがとう、翠。俺と一緒にいてくれて」
「碧音さん……」
「ありがとう」
思わず翠の胸に頬ずりをする。俺を抱き締める腕が伊織だったらよかったのに……と、そんなことが頭をかすめるけれど。そんなことを言ったら、きっとそれは翠も同じだろう。
今翠が抱きしめていたい相手は、俺ではなくて千颯なのだ……。これは、残り物同士が体を寄せ合い、傷を舐めあっているだけなのだから。
でも、翠の腕の中はひどく居心地がいい。
「碧音さん」
「ん?」
ふと名前を呼ばれた俺は顔を上げる。その瞬間、俺の額に柔らかいものが押し当てられた。涼しい潮風が俺たちの髪を静かに揺らしていく。打ち寄せる波音と、高鳴る鼓動が混ざり合って鼓膜に響いた。
「あ……」
それが翠の唇だと気づいた俺は、思わず体に力を込める。ギュッと瞳を閉じて翠のシャツを握り締めた。
翠の唇は一度離れて、今度は頬にチュッとキスを落とす。翠の唇が触れた場所がジンワリ熱を帯びていった。
俺は言葉を発することもできずに呆然と翠を見つめる。そんな俺に翠が照れくさそうに笑った。
「ごめんね、碧音さん。今のは忘れてください」
波の音と翠の心音が鼓膜に響く。それ以上に、自分の破裂しそうな程の心臓の音が、体中に響き渡った。
「忘れてください」
「う、うん。わかった……」
俺は強い戸惑いを感じながらもそっと頷く。
これが、俺と翠の悲しい始まりだった。
ともだちにシェアしよう!

