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夏休みの宿題⑧

 二学期の始業式まであと五日……というところで、翠は宿題をようやく終わらせることができた。  ここに来るまでは本当に苦労の連続で、「飽きた!」と駄々を捏ねる翠をなんとか宥めすかし、勉強をさせたのだった。 「よかった」  俺はようやく肩の力が抜けていくのを感じた。翠も宿題を終わらせた達成感からか、軽い足取りで階段を駆け下りている。  もうすぐ夏休みが終わってしまうけれど、こうやって翠とまた会いたいなって思った。でも宿題という会う口実がなくなってしまった今、どうやって翠を誘い出そうか……とあれこれ思考を巡らせる。  やっぱり翠といると楽しい。それに、伊織のことを忘れることができるのだ。 「あのさ、翠。今度どっか遊びに行かない?」  勇気を振り絞り、俺がそう口を開こうとした瞬間、翠が俺のほうを振り返って言葉を紡ぐ。俺は翠が発した言葉を信じることができず、一瞬呼吸が止まる思いがした。 「ねぇ、千颯」 「……え……?」  俺の世界から音が消えて、景色がモノクロに染まる。クラクラと眩暈がして倒れそうになってしまった。 「宿題が終わって本当によかった。ありがとうございます!」  千颯……? 「お礼に、今度どっかに遊びに行きませんか? 今度は俺が奢りますから」  その名前が翠の口から出てくるなんて、正直思ってもいなかった。でも翠は嬉しそうに笑っているから、きっと無意識なんだろう。悪気だってないはずだ。  もしかしたら、俺と千颯の名前を間違えたことさえ気づいていないのかもしれない。きっと、呼び慣れた名前が自然と口をついたのだろう。  翠、それはルール違反だ……。  俺は拳を握り締めて唇を噛み締める。ギュッと唇を噛んだせいか、口の中から血の味がした。ヒグラシの物悲しい鳴き声が校舎の中に響き渡る。夕焼けが二人の顔を照らし出した。  もうすぐ夏休みも終わりだ。 「どうしたの? 碧音さん。急に黙り込んで」  急に立ち止まった俺の顔を、心配そうに翠が覗き込んでくる。その顔を見た俺は、胸が張り裂けそうになって、目の前が涙で滲んで見えなくなった。  そうか。俺はやっぱり千颯の代わりだったんだ。今まで何を浮かれていたんだろう。  現実を突きつけられて、翠に久々に会ってあれだけ温かった心の中が、急速に凍り付いていく。  翠は千颯に失恋した寂しさを、手頃な俺で紛らわせていただけだったんだ。  ――どうして、こんなにも大切なことを忘れていたんだろう。  奥歯を強く噛み締めないと、涙が溢れてきてしまいそうだ。  そりゃあそうだよな。じゃなければ、こんなイケメンが平凡過ぎる俺を相手にしてくれるはずなんてない。  ――本当に、馬鹿だなぁ。  翠の心の中には、まだ千颯がいる。それがわかってしまった俺は、心をズタズタに切り裂かれたような気分だった。浮かれていた自分が恥ずかしくなってしまう。  駅に向かう途中も、翠はいつもと様子の違う俺のことを心配してくれていたけれど、俺はどうやって自宅まで帰ってきたのかもわからないくらいだった。   頭の中がボーッとして、全ての思考回路が停止してしまっている。 「やっぱり俺は独りぼっちなんだ」  ベッドの上にいるジンベイザメが、相変わらず笑いながら俺を出迎えてくれる。  これから楽しくなるはずだった夏休みは、最悪な形で幕を下ろしたのだった。  

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