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ファーストキス④
始業式の翌日も、俺は翠のことを避け続けてしまう。メールが送られてきても曖昧な返信をして、「電話じゃなくて、直接話がしたい」というメールは無視してしまった。
翠を自分から遠ざけたいという気持ちは勿論ある。でもそれ以上に、どう接したらいいのかがわからないのだ。
これからもっと翠と親しくなって、伊織のことを段々忘れていって……そんな時に翠まで離れていってしまったら、今の俺には何も残らない。もしそうなってしまったら、俺はどうしたらいいのだろうか。
伊織に失恋してから、俺はどんどん臆病になってしまっていた。自分が傷つかないよう保険をいくつもかけて、それでも危険を感じたら、自分の中からその危険因子さえ排除しようとしてしまっている。
そんなにも伊織に失恋したことが、俺にダメージを与えたのだろうか。それとも、今は翠を失うことが怖いのだろうか……。
「もう何も考えたくない」
傷ついた過去も、これから来る予想さえできない未来も。それに、憂鬱な球技大会も……。
残り物の俺は、ついに腐ってしまったのかもしれない。
そんな取り留めのないことを考えながら廊下を歩いていると、前から近付いてくる笑い声に俺は顔を上げる。俺はいつの間にか俯いて歩いていたらしい。
俺のほうに向かってくるのは、明らかに陽キャ軍団だ。俺は廊下の隅を歩いて、その集団に道を譲った。
「あ、翠……」
その中に翠の姿を見つける。翠は背が高いから、遠くからでも簡単に見つけることができた。翠の姿を見ただけで、心臓がドキドキする。少しだけ呼吸が苦しくなった。
俺の姿を見つけた翠は、やっぱり少しだけ寂しそうに微笑んでから、俺に向って軽く頭を下げる。翠にお辞儀をされた俺は、咄嗟に頭を下げた。いつもなら「あ! 碧音さんだ!」と遠くから手を振ってきそうなものだけど……。そんなことは、今の翠にはできないだろう。
こんな風に会釈をしあうだけの関係になってしまったことが寂しかったけれど、全ては自分が望んだことなんだ……と、そう自分に言い聞かせる。
そう、自分が望んだこと。
翠とすれ違って、少しずつ離れていく。それはまるで、今の俺たちの心の距離のようにも感じられた。
「さっきの授業で翠がした珍回答、本当にウケたよなぁ」
「うんうん! マジで面白かったわ!」
「なんで? 別に普通じゃん! 俺、超真面目に答えたんだけどなぁ」
楽しそうな笑い声と共に、少しずつ翠が遠ざかっていく。
翠は俺がいなくても、友達と楽しそうにやっている。そんな現実を目の当たりにして、俺は肩を落とす。翠は、友達だって多いんだ。
だから、俺なんかがいなくても、翠は何も変わらない……。
そう思ったとき、ふと背後から視線を感じた俺は思わず振り返る。俺の視線の先には、つい先程みたいに寂しそうに笑う翠がいた。
友達の輪から抜けるかのように俺のほうを振り返る翠と、視線が絡み合う。その何か言いたそうな翠の瞳が大きく揺れているような気がした。
俺の中の時が止まって、周りの騒音がひどく遠くに感じられる。俺は目を逸らすこともできずに、翠を見つめた。
次の瞬間、声にはならなかったけれど翠の形のいい唇が静かに動く。その声にならない翠からのメッセージに、俺の心臓が跳ね上がった。
「翠、何してんだ? 早く来いよ!」
「あ、うん。ごめん」
友達に呼ばれて走り出す翠。自分から遠ざかっていく翠の背中を、俺は呆然と見送った。
「翠、ごめん」
俺の目頭が再び熱くなる。最近は涙もろくなってしまい困ったものだ。男のくせに、こんなにもメソメソしているなんて、本当に格好がつかない。
『寂しい』
先程翠が紡いだ言葉。声にはならなかったけれど、唇の動きと、その表情から読み取れてしまった。
「俺だって、寂しいよ」
俺は翠から逃げるように、教室に向かって走り出した。
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