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ファーストキス⑥
「これはヤバイ……」
準決勝が開始して早々、俺の全身から血の気が引いた。優勝候補という前評判は本当で、今まで対戦してきたチームとは比にならない。
「こんな球を食らったら、骨折しちまう」
俺は自分に向かって投げられてくるボールを無我夢中で避け続けた。どうやら今までの試合で「あいつはすばしっこい」という迷惑な噂が流れたらしい。そのおかげで、俺はハンドボール部員から格好のターゲットになってしまっていた。
「碧音、避けろ!」
「わかってるよぉ!」
クラスメイトからの声援を受ける度に、俺は悲鳴に近い声を上げる。もう手を振って声援に応える余裕なんて残されていなかった。
必死過ぎて何が何だかわからない……この表現が正しいだろう。俺はまるで獣のように襲ってくるボールを、ただ夢中で避け続けた。
「碧音さん、頑張って!」
「え?」
必死過ぎて周りの音さえ聞こえなかったのに、その声だけは嫌に鮮明に鼓膜に響く。俺は思わず体の動きを止めて、声のするほうに視線を向けた。
「あ、翠……」
「頑張って、碧音さん!」
その瞬間、翠と視線が合う。俺の呼吸が一瞬止まった。
「頑張って、碧音さん! 頑張って!」
両手の拳を握り締めながら声を張り上げる翠。顔なんて茹蛸みたいに真っ赤だ。必死に俺を応援していることが伝わってきた。
「馬鹿じゃん、翠。自分のクラスじゃなくて俺の応援をするなんて。しかもあんなに一生懸命……」
俺の胸が熱くなる。敵の応援なんかしたら、後でクラスメイトに色々言われてしまうだろうに。本当に、馬鹿だよ。
俺が翠のほうに体を向けると、それに気付いたのか翠がにっこりと微笑む。その笑顔に俺は吸い込まれそうになった。
違う、馬鹿なのは俺だ……。こんなにも真っ直ぐで優しい翠を、自分が傷つくことを恐れるあまり避けてしまったなんて。
「碧音さん、かっこいいです!」
「え?」
「碧音さん、めちゃくちゃかっこいい!」
まるでお日様のように笑う翠に、俺は言葉を失ってしまう。
「頑張って!」
あぁ、翠……。胸が熱くなって、心が小刻みに震える。俺は無意識に体操服をギュッと握り締めた。「うん、頑張る!」そう返事をしようとした瞬間。
「碧音! 危ない!」
「へ? グハッ‼」
物凄い衝撃と共に、目の前に火花が散る。
ハンドボール部員が投げたボールは俺の顔面を直撃して、俺はボールごと吹っ飛ばされてしまった。
メキメキッという音と共にボールが右頬を抉っていく。骨が折れたのではないかというくらいの衝撃の後、顔が火を放ったかのように熱くなった。
痛くて苦しくて声も出ない。呼吸が出来なくて、目の前が真っ暗になった。全身の力が抜けていき、俺はその場に倒れ込む。
「碧音! 碧音!」
「大丈夫か⁉」
クラスメイトが一斉に自分の元に駆け寄ってくるのを感じる。
「最上!」
体育教師も飛んできたようだ。俺の周囲が一気に騒然となった。
「すみません、顔を狙うつもりなんてなかったのに……」
俺に向かってボールを投げた、ハンドボール部員の悲痛な声が聞こえる。それが痛々しくて、薄れゆく意識の中で「大丈夫だよ」って伝えたかったけど、それを言葉にすることができなかった。だって、よそ見をしていた俺が悪いんだ。
体育館の床が冷たくて気持ちがいいな、ってぼんやりと思う。ヤバイ、目の前が霞んできた。
「碧音さん、大丈夫⁉」
遠退く意識の中で翠の声が聞こえてくる。
大丈夫だよ、翠。俺は罰 が当たっただけなんだ。こんなにも優しい翠に意地悪をしたから。ただ、それだけなんだ。
「碧音さん、碧音さん!」
翠の声が少しずつ遠くなっていくのと同時に、俺の体がふわりと宙に浮くのを感じた。
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