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迷い猫の文化祭④
「ねぇ、伊織。みんなのとこに戻らなくてもいいの?」
「少しくらいいいじゃん。俺、もう少し千颯と一緒にいたい」
「はぁ……伊織は本当に甘えん坊だね」
伊織と話しているのは、翠ではなくて千颯だ。
俺の呼吸が止まる。鼓動がどんどん速くなっていって、全身が小刻みに震えはじめた。
今すぐこの場から立ち去るんだ。冷静な俺が咄嗟に指令をくだす。それなのに、体が動いてくれない。そればかりか、もっと二人の会話を聞いてみたい……と、好奇心まで湧いてきてしまった。怖いのに知りたい。俺の心がグラグラと揺れる。
見てはいけない、聞いてもいけない。そんなこと、わかりきっているのに。
俺は二人に気付かれないよう、そっと階段を覗き込んだ。
「なぁ、千颯。抱き締めてもいい?」
「だ、駄目だよ! ここ学校だよ。それに今日は文化祭で人がいっぱいいるし……。誰かに見つかったらどうするの?」
「大丈夫。こんな所、誰も来ないから」
「そんなことないよ。翠はよく来てるもん」
「俺の前で違う男の名前を出さないでよ」
そんな会話を聞いているうちに罪悪感に圧し潰されそうになる。恋人同士の甘いやり取りに聞き耳をたてているなんて……最低だし、変態だ。
それでも好奇心には勝てなくて。俺は遠くから二人を見つめた。
「……あ……」
そんな俺の視線に飛び込んできたのは、大事そうに千颯を抱き締める伊織の姿だった。
やっぱり、すぐに立ち去るべきだったんだ。
俺は強く後悔する。
「千颯、可愛い」
「伊織は甘えん坊で困ったさんだね」
「だって、俺、千颯が大好きなんだもん」
「ふふっ。僕も伊織が好き」
愛おしそうに抱き締め合う二人の姿があまりにも綺麗で、俺は言葉を失ってしまう。なんてお似合いの二人なのだろうと、指を咥えて眺めることしかできない自分が情けなくなってしまった。
「助けて、動けない……」
体から力が抜けていき、膝がガクンと折れそうになるのを必死に堪える。頭の中が酸欠になって、意識が遠退いていく気がした。
二人に見つからないうちに、ここから離れないと……。
俺の手から、音もなく焼きそばパンが床に落ちる。
涙で目の前がユラユラと揺れた。
「おい、何やってんだよ! ほら、行くぞ」
「う、ふぇ……」
突然現れた存在に俺は腕を掴まれ、引き摺られるようにその場を後にする。
俺の手をギュッと握り締めて、振り返ることなく歩き出す。その逞しい背中を見ていると、緊張の糸がプツンと切れるのを感じた。
「翠……翠……!」
「もう、なんであんたはあんな現場をボーッと見てるんだよ。傷つくってわかってるだろうに」
「だって、体が、うごかな……くて……」
「ったく、世話が焼けるんだから」
「ごめん、ごめんね、翠……」
突然現れた翠は俺の手を引き、険しい顔をしながら廊下を歩いていく。
翠は制服ではなく、文化祭のためにお揃いで作ったと思われる黒のロンティーを着ている。黒いシャツが翠の整った顔立ちと、引き締まった体をより一層引き立たせて見せた。
「碧音さん、泣きたいなら泣いてもいいよ。その代わり俺も泣くから」
「翠……」
あ、この光景見覚えがある。
その時俺はそう感じた。泣きべそをかく俺の手を引いて歩く翠。あのときも、翠の背中がとても逞しく見えたっけ。
――……水族館に行った日だ……。
あの時も、今みたいに動けなくなってしまった俺の手を引いて、翠があの場から俺を連れ出してくれたんだ。そして「残り物同士仲良くしよう」と、笑ってくれた。
辛かった思い出が呼び起こされて、俺の胸がギュッと痛む。
でも、今とあの時は違う気もする。俺の胸はドキドキと高鳴って、翠に掴まれた手が熱い。その逞しい背中を見ているとすごく安心する。
翠が来てくれてよかった……。俺は翠に手を引かれ、屋上に続く階段から少しずつ遠ざかっていった。
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