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第9話 兄の墓前

 貴族の邸宅が建ち並ぶ通りは、馬を引き歩くだけでも、住人の裕福な暮らしぶりを感じさせる。  競い合うように大きく豪華な庭には薔薇の花が咲き誇り、甘い香りを漂わせていた。  サイラスはそんな通りをヴァルトを連れて、複雑な面持ちで歩く。  そしてその足は一軒の邸宅の前で止まった。 「ここは? ずいぶん他とは違う雰囲気ですね」  周囲の邸宅とは違う物々しい雰囲気に、ヴァルトの大きな狼の耳がフードの中でピリッと立ち上がった。  屋敷の前に立ち塞がる鉄製の大きな門は固く閉ざされ、重装備の騎士が二人睨みを利かせている。  まるで王都の検問所を思わせる、緊迫した空気に包まれていた。  サイラスは屋敷をじっと見詰めたまま立ち尽くす。 「師匠?」  表情をなくし、緊張しているサイラスの様子に、ヴァルトが怪訝な顔をした。 「どうしたんですか?」  屋敷の前で立ち止まった、サイラスとヴァルトの姿を見つけた衛兵が、鎧の音を軋ませながら二人に近付いてきた。 「お前達、何を見ている? このお屋敷に用があるなら、名を名乗れ」  高圧的な物言いに、ヴァルトが顔を歪めたが、サイラスは静かに答えた。 「私の名は⋯⋯サイラス・ファラモンド」 「サイラス・ファラモンド?」  衛兵がサイラスの名を訝しげに繰り返す。 「いったい何の騒ぎですか?」  騒ぎを聞きつけたのか、鉄製の大きな門を開け中から初老の男が顔を出した。  この屋敷の使用人だ。  初老の男はサイラスの顔を見ると、驚きに目を見開いた。 「サイラス坊ちゃま?」  慌てて近寄って来た初老の男から、逃げるようにサイラスは踵を返す。 「サイラス坊ちゃまですか? 私をお忘れですか?」  サイラスは無言で馬に乗ると、馬を走らせた。  ヴァルトも馬に跨ると、慌てて後を追ってきた。 「サイラス様! お待ち下さい!」  初老の男の呼び声が聞こえたが、サイラスは振り返らなかった。  馬を走らせてどれくらい経っただろうか。  気がつくと辺りの景色は変わり、豪華な邸宅が並ぶ貴族街から離れていた。  ここは王都の中心部から離れた、郊外にある林だ。  賑やかな人口密集地から距離があるせいか、人影も少ない。  静かな林の中で、野鳥のさえずる声が響く。  王都の中にいるはずなのに、まるで辺境の田舎町に迷い込んでしまったような錯覚すら感じる。  そんな静謐な林の中に、突然開けた庭園が広がっていた。 「ここは?」  ヴァルトのフードの中でピンと立ち上がった狼の耳は、まるで手旗信号のように左右に動いている。 「貴族たちの墓地だ」  サイラスが何かを堪えているように呟いた。  乗って来た馬を近くの木の下で待たせて、サイラスはヴァルトと共に墓地の中を歩いて行く。  建ち並ぶ墓石の中で、一箇所だけ他とは違う物があった。  最近埋葬されたばかりの人がいるのだろう。  大量の花束に囲まれたその墓石は、さびしいこの場所でひときわ目立っていた。  サイラスはその場所に近づくと、震える指で墓石に刻まれた名前を辿る。  墓石にはトリスタン・ファラモンドの名が刻まれていた。 「兄上…………」  サイラスは呆然と呟くと、がっくりとその場に崩れ落ちた。  血の気の引いたその表情は強張り、蒼白になった唇を噛みしめる。  ガクガクと震える体で地を這うように、サイラスは墓石に縋り付いた。 「うっ…………ううっ」  堪えきれない嗚咽をあげて、サイラスの双眸から涙が溢れ出す。 「うああぁぁぁ…………兄上、どうして。どうしてっ」  頬を伝わり落ちた涙が、墓石を濡らしていく。  まるで泣きじゃくる子供のように震え、体を丸めるサイラスを見て、ヴァルトは呆然と立ち尽くしていた。  サイラスの泣き顔を見たことがなかったヴァルトには、どうしたら良いか分からなかったのだろう。  弟子の前ではいつも年長者として接し、自分はヴァルトの保護者だとサイラスは弱い所を見せまいとしてきたのだから。  嗚咽がすすり泣きに変わり、小さな背を丸めるサイラスの体を、上空から落ちてきた雨粒が濡らしていく。  ザァーザァーと振り始めた雨に我に返ったヴァルトは、頭から被っていたフードコートを慌てて脱ぐと、サイラスに渡した。 「師匠⋯⋯これ着てください」 「ヴァルト?」 「雨に濡れちゃいます」 「でも…………お前が」 「俺はこれくらいへっちゃらです。師匠の方が心配です。まだ熱も下ってないんでしょう?」  微熱が続いているサイラスは、よろよろと立ち上がると、素直にフードコートを被った。 「すまない⋯⋯こんな⋯⋯情けない所を見せてしまって」  目を赤く腫らしたまま、サイラスは俯く。  その時突然伸びてきたヴァルトの腕が、サイラスを強く抱きしめた。 「俺は…………ずっとあなたの側にいますから」  ヴァルトの全身から伝わる熱が、雨で冷えたサイラスの体を、じんわりと温めていく。  サイラスはその身をヴァルトに預けると、ヴァルトの胸に顔を埋め、再びむせび泣いた。  降り注ぐ雨は勢いを増し、サイラスはヴァルトに連れられて馬を待たせておいた木の下へと移動した。  生い茂る葉が雨除けとなって、体が濡れるのを防ぐ。  鉛色の空から降り注ぐ雨は、まるで天が流す涙のようだった。  雨に濡れる墓地を見つめながら、サイラスはぽつりぽつりと話し始めた。 「トリスタン兄上は、俺にとって親の代わりような人だった⋯⋯俺の家は元々武家の家系で、俺の父はガラハッド王国の近衛騎士団長を務める程の騎士だったし、トリスタン兄上も当然のように騎士団に所属していた。俺も幼い頃から剣技を学び、いずれは父のような騎士になるのだと思っていた」  幼少期から騎士になるための英才教育を施されていたサイラスは、ファラモンド家に生まれた者の宿命として、騎士になる事が始めから決められていたのだ。 「そんな父だったが、俺が母に似ている事を酷く気にしていた。俺の母は男性のオメガで⋯⋯ヴァルト、お前と同じ人身売買の被害者だったんだ」  静かにサイラスの話に耳を傾けていたヴァルトの赤い目が、驚きに見開かれる。  ピンと立ち上がった狼の耳が、鋭く垂直に尖り、フサフサとした長い尾が、ヴァルトの心に秘められた憎しみを表すように、ブンッと水平に薙ぎ払われた。 「父は母を武勲の褒章として、国王より買い与えられていた。父は母を気に入り、とても大切にしていたけれど⋯⋯それだけにオメガの置かれた状況を危惧していたんだ。本来なら十二歳で受けるバース判定を、十歳の俺に受けさせた」  まだ涙の跡が残る翡翠色の目を、サイラスは寂しそうに伏せる。 「結果は⋯⋯オメガだった。オメガだと分かったその日から、俺は屋敷の奥に閉じ込められ、外に出るのを禁じられた。父はオメガの俺が、母のように攫われるのではないかと⋯⋯怖くなったんだと思う。一国の騎士団長を務める程の騎士でも、この国でのオメガを取り巻く状況は恐ろしかったんだろう」  この国でのオメガは、生きた宝石だ。物と同じ、人間としての尊厳はない。 「お前は騎士にはなれないと、そう父に言われたんだ。俺はずっと父のような騎士になると決めていたのに⋯⋯」  オメガは自分の生き方すら決められない。他者に摂取される事はあっても、望む生き方を選ぶにはオメガ性は呪われた呪物のように付いてくる。 「どうしても騎士になりたかった。俺は⋯⋯両親の目を盗んで家を飛び出したんだ。そんな俺の後ろ盾となって助けてくれたのは、トリスタン兄上だった」  まだ十歳の子供が、両親の援助もなく生きていくのは難しい。  ましてやサイラスは貴族の子供で、世間知らずだった。 「兄上は自分の伝を使って、ガーディアンウォール辺境伯領の騎士団に俺を預けてくれた。王都から遠い辺境は、アルファも少なかったし。比較的治安の良い田舎町だったから。辺境騎士団は、貴族や平民、人間と獣人という身分の違いで比較される事もない。実力主義なのも都合が良かった」  人間に獣人、種の違う者も共に暮らす辺境は、差別意識も薄い。  オメガであるという理由だけで、捕らえられ売られる危険は王都よりも格段に少ない。 「兄上は俺が騎士として独り立ち出来るまで、あらゆる援助をしてくれた。俺が自分自身で身を守れるようになるまで、助けてくれたんだ。遠く離れた母上の様子も、俺が心配しないように、常に気にかけてくれていた。本当に⋯⋯感謝してもしきれない。俺にとってかけがえのない、大事な人だった⋯⋯」  兄の事を語るサイラスの目に、止まったはずの涙が再び溢れ出す。  止めどもなく流れ落ちる涙は、降りしきる雨と同じだった。  ヴァルトは何も言わず、立ち尽くすサイラスを背後から包み込む。  サイラスはヴァルトの腕を振り解く事もなく、じっとその身を預けていた。  

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