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第14話 俺は……辛かったんでしょうか?
深夜遅く、サイラスは汗だくになって目を覚ました。
全身が熱く、喉はカラカラに干上がっている。
また熱が上がったようだ。
(喉が渇いた。水が飲みたい)
ベッドから体を起こしたところで、枕元に水と解熱剤が置かれている事に気づいた。
ヴァルトが用意していたようだ。
「ヴァルト⋯⋯」
ヴァルトに心配をかけてしまったと思うと、サイラスは不甲斐ない。
隣のベッドで寝ているヴァルトの方を見ると、その姿はなかった。
思わずサイラスはヴァルトの姿を探して、辺りを見回す。
部屋の窓から差し込む月明かりから伸びる影に気づいたサイラスは、ベッドを抜け出すと窓辺に向って歩いて行った。
ヴァルトは青白い光に照らされながら、じっと窓の外を眺めていた。
「眠れないのか?」
サイラスが問いかけると、ヴァルトが驚いて振り返る。
「師匠。すみません、起こしちゃいましたか?」
「いや、喉が渇いただけだ。水を用意してくれてありがとう。助かる」
「それくらい当然ですよ」
ヴァルトは照れくさそうに微笑む。
まだどこか少年のような面影が抜けないくせに、ヴァルトは年齢以上に大人びているところがあって、そのアンバランスさがサイラスの庇護欲を刺激するのだ。
「あの子供の事が気になっているのか?」
サイラスの問いに、ヴァルトの大きな狼の耳がビクリと立ち上がる。
すぐにへにょりと耳を倒したところを見ると、図星だったようだ。
「…………似てると思ったんです。母に。いや⋯⋯俺の一族に」
何かを言い淀んでいるのか、ヴァルトは俯いてしまう。
よほど言いにくい事なのかもしれない。
そう思ったサイラスは、それ以上問うのは止めようと思ったのだが。
「あの銀色の髪と、青い目は⋯⋯エリンドルの獣人じゃない。たぶん俺と同じツンドラに住む一族の出です」
ヴァルトはエリンドル出身だと思っていたサイラスは驚く。
「ツンドラって? エリンドルと違うのか?」
「ツンドラはエリンドルよりも北にある、一年中真っ白な雪に覆われた閉ざされた地域です。寒さの厳しい絶界で、普通の獣人が住めるような場所じゃない」
エリンドルよりも北の地に、そんな自然環境の厳しい国があったなんて、サイラスは聞いた事がなかった。
「ツンドラに住む獣人は、皆銀髪と青い目をしていて⋯⋯俺は異質だったから、母は俺を連れて逃げ出したんです。一族は俺を忌み子と呼んで、追っ手に何度も殺されかけました」
サイラスはヴァルトを見つめたまま、絶句する。
まさかヴァルトにそんな過去があったとは、知らなかったのだ。
「エリンドルに逃げ込んだ母は、だんだん俺が重荷になったんでしょう。俺を孤児院に捨てて、居なくなってしまいました」
フッと息をついたヴァルトは、ルビー色の綺麗な目を眇める。
その眼差しは何の感情も宿しておらず、いつもの快活なヴァルトからは想像も出来なかった。
まるで他人事のように淡々と語る姿は。
いつも感情豊かなはずのヴァルトからは、痛みも苦しみも、悲しみさえ感じられない。
『お兄ちゃんは⋯⋯助けてくれるの?』
出会った頃の小さなヴァルトを思い出したサイラスは、胸が締め付けられた。
あの日、全てに絶望していた小さなヴァルトは、恐る恐るサイラスに助けを求めていた。
あれは奴隷にされた苦しみから、逃げたかっただけじゃない。
自分の運命全てから、救われたかったのだ。
「辛かったな⋯⋯ヴァルト」
「俺は⋯⋯辛かったんでしょうか? 何があったかは思い出せるのに⋯⋯俺は⋯⋯自分がどんな気持ちだったのか⋯⋯思い出せないんです。いつも怯えていた母が、ひどく苦しそうだったのは覚えているのに」
子供だったヴァルトは、ぽっかりと感情が抜け落ちていたのだろう。
無力な子供は感じる事を止めて、全てを諦めていたのかもしれない。
「ヴァルトの母上は…………お前を捨てたわけじゃない。きっと守りたかったんだよ」
(こんな言葉は、慰めにもならないけれど⋯⋯親に見捨てられたなんて⋯⋯幼い子供には、受け入れられるわけがない)
お前は騎士になれないと、尊敬していた父に言われた時を思い出し、サイラスの心が軋んだ音を立てる。
あの時サイラスは、父に見捨てられたのだと思ったのだ。
その裏側にある、父の気持ちなど想像もできなかった。
今ならば父が何故突き放すような真似をしたのか、サイラスにも理解できる。
(きっとヴァルトの母上も、理由もなく見捨てたわけじゃない)
「守ろうと⋯⋯してくれたのでしょうか? 今思えば⋯⋯母は心を病んでいたのかもしれません」
心を病んだ母を前に、小さなヴァルトに出来たことなど何もなかっただろう。
それでもどこか自分を責めているように感じるのは、母が病んだ理由が自分にあるのだと、ヴァルトは思い込んでいるからだ。
「お前は子供だったんだ…………守られて良いんだよ。母上が孤児院にお前を連れて行ったのも、そこに行けば助けられると思ったからだ。ちゃんとお前が生き残る道を、選んでくれたんだ⋯⋯決して見捨てたわけじゃない」
「生き残る道⋯⋯」
サイラスの言葉にヴァルトは大きく目を見開く。
「そうだ。お前は⋯⋯何もできなかったんじゃない。ちゃんと母上の望みを叶えているよ」
何も映していなかった瞳に、ようやく光が戻る。
感じる事を放棄していたヴァルトが、意志の力を取り戻したように。
ヴァルトの中で自分の過去と向き合う、勇気の火が灯ったのだ。
「母の別れ際の言葉が今も忘れられないんです。あれはどういう意味だったのかと」
『いつかあなたが自分の力で自分の命を守れるようになったら。その時が来れば、封印は解けます』
子供だったヴァルトにはその言葉の意味を、母に尋ねられなかったのだろう。
聞いてはいけないことだと、子供心に感じたからだ。
知ってしまえば、母を困らせるだけだと思ったのかもしれない。
「母は…………俺の何を封じたのか?」
ふるふると、頭を振るヴァルトには、何も思い出せないのだろう。
「ただそれ以来…………追っ手は来なくなった。だから…………もう追われる事はないのだと…………そう、思ってたんです」
追われることへの恐怖から遠ざかった代わりに、ヴァルトは今も得体のしれない何かを抱えている。
何も感じず、忘れたふりをして、目をそらし続けなければならない程、一人で抱えるには重いものなのだろう。
サイラスはそっとヴァルトの手を握りしめる。
ひんやりと冷たいヴァルトの手は、まるで恐怖に怯え凍えているようだ。
熱に浮かされるサイラスの手で握られては、熱すぎるだろうに。
ヴァルトはサイラスの手を拒みはしない。
冷たかった指先に血が通い、ヴァルトの手がほんのりと暖まるまで、サイラスはその手を離さなかった。
(もう、大丈夫だろう)
サイラスがヴァルトの手を離そうと身じろいだ時だった。
月明かりに照らされたサイラスの首元を見たヴァルトが、急に顔を強張らせた。
咄嗟にサイラスは首元の傷を思い出す。
ツキリとした小さな痛みは、まだ消えてはいない。
「⋯⋯あの男。たとえ子供でも俺の師匠に手を出すなんて、俺は絶対にあいつを許さないっ」
ギリッと奥歯を噛み締めて、ヴァルトは悔しそうに顔を歪めた。
ふるふると小刻みに震える体は、全身から怒りをあらわにしている。
「ヴァルト⋯⋯そんなに気にするな。油断していた俺が悪い」
サイラスはヴァルトを抱き寄せると、その背をポンポンと優しく叩く。
へにょりと耳を倒したヴァルトは、縋るような目をしていた。
「師匠は俺が守ると言ったのに、俺は師匠に守られてばかりですね。いつだって…………前を向かせてくれる」
「お前はちゃんと守ってくれてる。信じてるよ、ヴァルト」
サイラスが微笑むと、ようやくヴァルトは気持ちが落ち着いたのか、おだやかな表情を浮かべた。
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