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第29話 俺のために生きてください

 暗い意識の底から浮上して、再び目を開いたサイラスは、見たことのない程大きな狼が、傍らにいる事に気付いた。  サイラスを背に庇うように立ち、迫りくる飛竜相手に一歩も引こうとしない。  闇夜の色の毛は大きく逆立ち、赤い瞳はルビーのようだった。  まるでサイラスの守護者のように、その狼は戦っていた。  神話の中に出てくる狼神のように。  狼の吠え声は風の精霊よりも早く、鋭利な刃となって飛竜を切り刻んでいく。  地上に落下した飛竜に狼は容赦なく無詠唱魔法を放ち、あっという間に三匹の飛竜を殲滅してしまった。  この強大な力は、この世のものとは思えず、神か悪魔かとしか思えない。  恐ろしい力を持つ狼なのに、不思議とサイラスは怖くなかった。  飛竜を屠った狼は、サイラスが目覚めた事に気づくと、大きくフサフサの尻尾を激しく揺らし、尖った両耳をペタリと折り曲げる。  まるで犬のような愛らしい動きに、サイラスの頬は緩んだ。 「……ヴァルトか?」  何故だかサイラスにはその狼の正体が、可愛い年下の恋人だと分かったのだ。  恐ろしい飛竜相手に一歩も引かず、サイラスを守ろうとするのは、ヴァルトしかいないから。  どうしてヴァルトが狼になってしまったのか? あるいはまだ夢の中なのか?  これは死に瀕したサイラスの、最後の心残りが見せる幻覚なのか?  (……そのどれでも良い……)  最期にヴァルトの姿を、サイラスはもう一度見る事ができたのだから。  (……これで満足だ……)  目を閉じ、意識を手放そうとした時だった。  ペロリと、突然狼に頬を舐められたのは。  狼はサイラスの流した血を洗浄するように、綺麗に全て舐め取ってしまった。  ペロリ、ペロリと温かい舌で舐められる度、全身を蝕んでいた痛みが引いていく。  (もしかして……治癒魔法なのか?)  サイラスの傷口をペロリと狼が舐めると、瞬く間に傷口は塞がっていた。  サイラスの全身を舐めた狼は満足したのか、長い尾をフサフサと揺らしている。 「……ありがとう」  サイラスはやっとの思いでそう告げる。  ピクピクと動く愛らしい狼の耳に手を伸ばし、触れたいと思ったけれど、力の抜けた体は動かなかった。  横たわったまま動けないサイラスを、覗き込んでいた狼の姿が揺らぎ始める。 「師匠……」  黒く巨大な狼は、いつの間にかヴァルトの姿へと戻っていた。 「師匠っ」  ギュッとサイラスに抱きついてきたヴァルトは、体を震わせながら涙を零していた。 「……ヴァルト……」  抱きしめて震えるヴァルトの背を撫でてやりたいと思うのに、サイラスには指一本動かす力も無かった。  ヴァルトはクシャクシャに顔を歪めて、溢れ出る涙がポタポタとサイラスの体に落ちてくる。 「そんなに……泣かないでくれ……」  涙を拭ってやりたくても、サイラスには叶わなかった。  流れる血は止まり、傷口は塞がった。痛みの消えた体は、きっと肺に突き刺さっていた骨も、治癒したのだろう。内臓の損傷もヴァルトの治癒魔法が治してくれたのだ。  それでも体が動かないのは、生命の維持に必要な魔力が尽きたからだろう。  人間は魔力が完全に枯渇してしまったら、自力では回復出来ないのだ。  もう間もなく魔力を失った体は、機能しなくなる。  それは死を意味していた。 「俺の魔力を受け取って下さい」  溢れ出る涙を拭う事もせずに、ヴァルトはサイラスの手を強く握り締めてきた。 「俺の全てを……フェンリルの力を全て……師匠に捧げます」 「……何……を……言ってるんだ?」  ヴァルトからの突然の申し出に、サイラスは困惑した。 「お願いです。俺の魔力を受け取って下さい。そうすれば師匠を助けられる」 「……ヴァルト……」  (魔力の譲渡……そんな事をしたら?) 「……ヴァルト。お前の命が……危なくなるんじゃ?」  生命を維持する源である魔力を、全て譲り渡すなんて…… 「……俺は、大丈夫ですから。フェンリルの力が無くたって、死んだりしません」  ヴァルトはまるでサイラスを安心させるように微笑む。 「そんな……そんなこと……事も無げに言わないでくれ」  顔を歪めたサイラスの頬に、ヴァルトの温かい手が触れる。 「俺のために生きてください。俺は……あなたがいないと……生きて行けない」 「ヴァルト……」  穏やかに微笑むヴァルトの瞳は、決して否とは言わせない力強さがあった。  (全てを……承知の上なんだな……)  フェンリルの力を失うリスクも、ヴァルトは知っていながら、サイラスに生きてくれと言うのだ。  (何もかも捨ててしまうなんて……)  馬鹿な事をすると、誰もが思うだろう。  (そうまでして……俺を……選んでくれたのか) 「……分かった。俺が生きることで、お前が生きられるなら……俺も……お前のために生きる」  ヴァルトが望むなら、全てを受け入れよう。  そうサイラスは決意した。 「俺の主になってください。俺は師匠を主と定め、生涯隷従すると誓います」 「隷従するって……」  奴隷とされた過去を持つヴァルトが、サイラスに隷従すると誓う。  そんな屈辱的な契約を、ヴァルトはためらうこと無く口にした。 「これはフェンリルの主従契約です。俺はフェンリルとしての力を全て……あなたに捧げると誓います。対価として……師匠。俺をあなたの番にして下さい」  ヴァルトの赤いルビーの瞳は、真っ直ぐにサイラスを見据えている。 「俺の番として、生涯を共に歩んでください。フェンリルの番として、俺を束縛するんです。隷従するとは、そういう意味ですから」 「ヴァルト……お前……」  一度番になってしまえば、オメガのサイラスはヴァルト以外のアルファを受け入れる事は出来なくなる。  ヴァルトも決してサイラスを捨てる事は出来ない。  自由を捨ててまでサイラスを番に望み、隷従するという神獣フェンリルにとって最大の屈辱を、ヴァルトは迷わず選択すると言うのだ。  この決意と覚悟の大きさに、サイラスは胸が締め付けられた。 「分かった」  短く、確かなサイラスの了承を得て、ヴァルトは花が綻ぶような笑みを浮かべた。 「首すじから俺の魔力を注ぎますから。受け取ってください」  ヴァルトに抱き起こされ、サイラスは無防備な首すじを晒す。  人間にとって急所であり、オメガの自由を奪う刻印を刻む場所である首すじを晒す事は、サイラスにとって何よりも避けねばならない恐怖の象徴だったのに。  温かなヴァルトの唇と、やんわりとした甘噛みを感じて、サイラスはくすぐったい気持ちになった。 「痛かったら、許してください」  この場に及んでも、サイラスを気遣うヴァルトの優しさに、胸が温かくなる。 「痛くても構わないから……」  サイラスが了承すると、ヴァルトは尖った歯を突き立てた。  その瞬間、皮膚を食い破られる痛みに、サイラスは声にならない悲鳴をあげる。  痛みと共に流れ込んで来たのは、膨大なフェンリルの魔力だった。  枯渇していた魔力がサイラスの体の中を循環し、満ちていく。  機能が停止しかけていた体組織が息を吹き返し、蘇生していくのを感じた。  魔力を注ぎ終えたヴァルトは、サイラスの首すじに刻まれた所有の証を見て、満ち足りた表情を浮かべた。  そしてサイラスの傷口から流れ落ちた血を、労わるように舐め取っていく。  この瞬間、サイラスはヴァルトと血の契りを交わしたのだ。  

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