3 / 41

02

 収容所の医務室は、牢がある場所とは別棟にある。コの字型の牢の中ほどにある自分たちの牢を左手に出て看守が向かった先は行き止まり。看守が持っている鍵を使わないと外に出ることができない。右手に出て、三つ牢を越えて角を曲がった突き当りは、医務室がある棟へと行けるようになっている。  これも、いままでとは違う。いままでは看守の同行が必須だったうえに、看守がいる時間だからとそこの鍵が開けられているなんて有り得なかった。窓も開けられていないために湿気とカビのにおいで不衛生だったけれど、嵌め込み格子だった窓は脱走できない程度に開く窓へと変更された。ただ、開けられるのは看守のみだし、鉄格子が設けられていて出られないようになっている。  医務室がある別棟へと向かうドアを開けると、元々が看守たちの休憩室等がある場所へと通じているからか、すぐに泥落とし用のラグが敷かれている。自分たちは常に裸足だけれど、一応そこで足を拭いて、ぺたぺたと音を立てて医務室に向かった。  医務室はこの廊下を歩いて行ったすぐ先にある。モダンな作りのドアだが、処置中に奴隷が騒いでも外部にわからないようにするためか、かなり防音性が高い。ここに連れ込まれて犯されたことも何度もあるため、少し緊張する。  ドアを叩く。そうするようにと言われている。返事がなかったが、少ししてドアが開いた。先ほどの看守が出てきた。看守は「来たな」と穏やかに笑って、ユーリの頭をぽんと叩いて部屋を出た。中に入るよう促され、応じる。すぐにドアを閉められたが、鍵をかけるような音はしなかった。 「呼び立てて申し訳なかったね」  聞き慣れない優しげな声がする。室内はふわりといい香りに包まれていた。彼のにおいなのだろうか。声の主を注視して、目を瞬かせる。  典型的なノルマ族の風貌だが、瞳の色がジャスパーグリーンではなく、サマーグリーンだ。快活で、でも穏やかで、優しげなそれがこちらを向く。びくりと肩が跳ねた。 「こちらへ」  言われるがままに近付いて、指定された椅子のそばに立つ。彼が不思議そうにしているのが分かった。 「座って」 「えっ?」 「えっ、って」  お互いにきょとんとする。座れ? 奴隷に? 目を瞬かせて彼を見ていると、なにかに気付いたようにそっと微笑まれた。 「ここにはぼくしかいない。ここで見聞きしたことは口外しないし、安心していい」  そう言われたが、ユーリはわからないふりをした。通常のイル・セーラは、簡単な単語ならノルマ語を理解をしている。自分もそう装ったが、さっき普通に問い返してしまったし、どうしようかなと考える。悪意のにおいがない。かといって、初手で信じるのもリスクがある。彼を注視していると、すっと手が伸びてきた。手首を掴まれ、引っ張られる。 「え、えっと」  そう言ったあとに、彼がなにかを言った。またきょとんとする。いまのはイル・セーラの共通言語――リミシュ語……なのだろうか? 「ああ、発音が難しいな、全然伝わっていない」  少しうろたえるようなそぶりを見せたあとで、彼が「椅子に座る」というジャスチャーをして見せた。自分の隣をぽんぽんと叩く。座れ、と言われたのも、リミシュ語を話そうとしたのも、わからないでもない。おもしろい人だなと思いつつ、ユーリは隣にちょこんと腰かけた。 「えっ?」  いや、あの……と、やや動揺したように、彼が言った。「向かいに座れと言いたかったんだけど」ともごもごと口ごもるように言う。まあ、分かっていてわざとやっている。さっきまでの快活さが嘘のように、焦りに支配される。感情の動きが分かりやすい。加えて、素直。この人は嘘を吐かない――いや、吐けない目をしている。  よく見ると、サマーグリーンのなかに別の色が混じっていることに気付く。自分たちとおなじ、ダイクロイックアイだ。ノルマにもいるんだ、と素直に思う。あまりにも見つめていたからだろうか。彼がハッとして、テーブルの上のカルテを手に取った。 「昨日、腹痛があったと聞いたが」  聞き取りやすいようにするためか、ゆっくりと、一音一音丁寧に発音してくれる。大体のノルマは早口だし、言語形態やアクセント、イントネーション等すべて異なるせいで聞き取れない仲間が多い。あの怪しいリミシュ語で通用すると思っていたんだろうかと思ったら、笑えてきた。ふふっと笑ったら、彼がまたすこしたじろいだ。 「あ、ああ、そうか。ごめん、手順がバラバラだった」  言って、両手で顔を覆い隠した。耳まで真っ赤だ。揶揄い甲斐のあるオモチャをひとつ見つけたとばかりに、ユーリがしたり顔になる。そんなこともつゆ知らず、彼が手を下ろし、体ごとこちらに向き直った。 「ぼくはレオネ・セラフィエル・クリステン。国医をやっていて、今度からこちらを担当することになったんだ」  よろしく、というが、急な接触をしてこない。さっきも手ではなく手首を掴んだ。イル・セーラがあまり接触を好まないと分かっているからこその行動だったらしい。どう見てもお坊ちゃんで、自分よりは年上だけれど、“こんなところ”の担当になっただなんて、不憫すぎる。どうせ1日で音を上げるだろうと思いつつ、口元で笑う。 『おもしろそう』  ぽつりと口を突いて出た。やべっと心の中で思う。とはいえ、リミシュ語が聞き取れなかったらしく、レオネと名乗った彼はきょとんとした。 「いまのは、なんて言ったんだい? そうか、アクセントと舌の使い方か」  そう言いつつも、カルテを膝に乗せ、聞き取りをする準備をしている。フォルス出身者はステラ語を、それ以外の人たちはリミシュ語を、たまーにいるジェオロジカ出身者は、フォルスのステラ語以上の激レア言語であるキロス語をしゃべるということを聞いていないのか、それとも若くていかにも金持ちの坊ちゃんという感じだから、聞かされていないのか。それこそ、キロス語をしゃべるやつらの処置をする際には、いつもユーリかサシャが強制的に連れてこられる。さっきの看守はいい人そうに見えて、彼には辛辣なのか、それともユーリがノルマ語をしゃべることが“当たり前すぎて”伝えるのを失念しているのか、どちらだろう。まあ、彼のことだから、きっとうっかりだ。あとで迷惑料を徴収しに行こうと、口の中で笑う。 「それで、腹痛があったと聞いたけれど、大丈夫かい?」  また、一音一音丁寧に発音してくれる。言いながら、日付と時間をカルテに書き加えていく。数字の形態を見て、「あっ」と声を上げた。 「フォルムラ語じゃん」

ともだちにシェアしよう!