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『マテウスにバレたらなにをされるかわからないじゃないか』
だから大丈夫と、シアン。
『でも、熱が出たりしたら困るじゃん』
『エドの薬がある。それに今日診療医や国医がいないなら、薬研を借りればいい』
『アレはしばらくやめておこうって、エドとサシャが。新しい国医が律儀な奴だから、マテウスとトサカが荒れるんじゃないかって言ってた』
トサカとユーリが呼んでいるのは、鶏のようにけたたましく奴隷に罵声を浴びせる看守のことだ。少しでもサボっているとそれこそ早足でやってきて怒鳴られる。名付け親はシリルだ。あまりに衝撃的なあだ名だったし、怒った鶏が攻撃を仕掛けに来るときの仕草によく似ているから覚えている。
『もうやだよ、フォルスに帰りたい』
ぼそりと言ったかと思うと、シアンの目から大粒の涙が零れだした。最近なにかあるたびにこうだ。相当マテウスに嫌なことをされたらしい。泣くなよと慰めるけれど、シアンの涙は止まらない。それに気付いたSig.フィオーレがこちらにやってきた。
「困ったなあ。こういう時に限って手薄なんだよねえ」
俺が残るわけにもいかないしと、嫌な顔ひとつせず困ったように言う。どうしようかなとSig.フィオーレが小声で言うのを聞いていたら、廊下から革靴の音が聞こえてきた。シアンの身体が竦む。足音だけでわかる。マテウスだ。大きな音を立ててドアが開く。シアンが泣きながらしがみ付いてきた。
「いつまで治療をやっているんだ、早く現場に戻せ」
ずかずかとマテウスがこちらにやって来る。Sig.フィオーレは表情を崩すこともなく、軽く肩を竦めた。
「右足を骨折しているから、しばらく労働は無理だね」
「手がまだ使えるだろう」
やっぱりこいつは鬼だ。顔に出ていたのか、マテウスに思いきり睨まれる。シアンがしゃくりあげるようにして泣きながらしがみ付いてくるのを横目に、これ以上シアンがターゲットにされないように、マテウスを睨み返した。
「いつまでサボってやがる、クソガキ」
地を這うような声で言われ、さすがに肩が跳ねる。Sig.フィオーレが時計を見上げ、マテウスを呼んだ。
「失礼だけど、文字盤は読めるかい?」
「なに?」
「もう16時を過ぎている。彼らは食事の時間だし、労働は15時半までと決められたはずだ」
Sig.フィオーレはなかなかに嫌味なことを言う。マテウスが苛立ったようにSig.フィオーレを睨み、胸倉を掴んだ。
「貴様、誰に向かって物を言っている」
「フェアな紳士じゃないことは確かだね」
なかなかの形相で睨まれているというのに、Sig.フィオーレは顔色ひとつ変えないどころか、いつもの微笑んだような表情でマテウスの手首を軽く掴んだ。
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