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第52話

 穏やかな日々は、いつまで続くのだろう。  庭でロルフと遊んだあと、部屋へ戻ったノアリスはソファに腰を下ろし、ふとそんな思いに囚われた。  体調は随分と良くなった。  痛みはほとんどなく、塔で過ごしていた頃と比べれば、顔色もずっと明るい。  ──けれど。  心の傷はまだ癒えない。  夜ごと夢に見るのは、あの忌まわしい光景。卵を産まされる時の恐怖だ。  ルイゼンに来てからは、医師に処方された薬湯を時折口にしているものの、効き目は薄い。  押さえつけられ、無理やり暴かれるあの痛み。何度も刻まれた記憶は、今もなお彼の心を蝕んでいる。  夢を見た翌朝は吐くことこそなくなったが、体は重く、心は沈み、ベッドから起き上がるのさえ困難だった。 「ワンっ!」 「あ……ロルフ、ごめんね。遊びたいの?」  短く鳴いたロルフが膝に顔を寄せ、太腿に顎を乗せて「撫でて」と甘えてくる。  その愛らしい仕草にノアリスは微笑み、頭を撫でてやった。やがてソファーへ抱き上げ、ぎゅっと抱きしめる。 「……かわいいね、ロルフ」  柔らかな体温に触れると、張りつめていた心が少しだけ和らいでいく。  小さな命に寄り添うだけで、失われた温もりが戻ってくるのだった。 ◇  一方その頃、カイゼルは謁見の間で王座に腰掛け、大臣たちを見下ろしていた。  議題は、またも世継ぎのこと。宰相イリエントからも繰り返し進言されている件であり、いかにカイゼルといえど無視しきれなくなっていた。 「──ですから、どうか国のためを思い、王子を残していただきたく」 「妾姫様も揃っております。陛下のお望みとあらば、相応しき娘もご用意いたします」  平伏し懇願する声を聞きながら、カイゼルは深く溜息をついた。  脳裏に浮かんだのは、ノアリスの姿。 「俺は俺の好きにする。王に世継ぎが必要なのは理解しているが……どうしても気乗りしない。俺が心を動かされるとすれば、それはノアリスだけだ」 「しかし陛下! ノアリス様は男性。子をなすことは叶いませぬ!」 「ならばノアリスのような娘でも連れてくるか? ……まあ、どこを探しても見つからんだろうがな」  喉の奥で小さく笑うと、カイゼルは隣に立つイリエントへと視線を投げる。 「そういえば、お前も国一番の美女を連れてくると豪語していたな?」 「……ええ。しかし、ノアリス様には及びません。すでに半ば諦めております」 「賢明な判断だ」  そうは言っても、もし自分が倒れれば国は行き場を失い、破滅の道を辿ることになるだろう。  カイゼルはそれを承知のうえで、なお己の心に従おうとしていた。 「今日はここまでだ」  立ち上がったカイゼルは、差し込む光に目を細めた。  太陽はすでに天の真上。  彼はノアリスと昼食を共にするため、足を彼の部屋へと向けた。  そこには、ソファの上でロルフと重なり合うように眠るノアリスの姿があった。  安らかな寝顔に、自然と表情が和らぐ。起こすのは惜しいが、食事を抜かせるわけにもいかない。 「ノアリス」  肩へと手を置くと、ノアリスはゆっくりとまぶたを開いた。  視線が絡み合い、瞬きの後に小さな声が漏れる。 「……? カイゼル様……?」 「ああ。そろそろ昼食の時間だ」 「! もうそんな……すみません、眠ってしまって……」 「構わない。気持ちよさそうな顔を起こしてしまった俺の方が悪い」 「いえ……そんな」  恥じらうように視線を逸らす仕草が、また愛らしかった。  ロルフも目を覚まし、ノアリスを見上げて小さく尻尾を揺らしていた。

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