60 / 91

第60話

 穏やかに目を覚ましたノアリスは、ホッと小さく息を吐いた。  怖い夢を見なかった。昨夜はあんなに怯えて眠れなかったのに。  ──全部、カイゼル様のおかげだ。  そう思った瞬間、ノアリスは『あれ……?』と違和感を覚える。  昨日、怖くなって、彼に助けを求めて……そして、一緒に横になった……?  ギョッとして上体を起こす。隣を見れば、そこにはまだカイゼルが眠っていた。  烏の濡れ羽色の美しい髪がシーツに広がり、静かな呼吸が胸を上下させている。 「ぁ……ど、どうしよう……」  起こしてしまうべきか、そっと部屋に戻るべきか。  答えが出せず、ノアリスはただじっと眠る王を見つめた。  その安らかな寝顔を見ていると、自然と手が伸びていた。  閉じられたまぶたに指先でそっと触れ、輪郭をなぞるように頬へと添えて──。 「っ!」  はっと我に返る。  何を、あまりにも失礼なことを……!  慌てて手を引こうとしたその瞬間、温かな大きな手に捕らえられた。  指先が逃れるより早く包み込まれ、胸が跳ねる。  閉じられていたまぶたが揺れ、ゆっくりと開かれた。  朝の光を受けた鮮やかなエメラルドグリーンが、真っ直ぐにノアリスを映す。 「……ノアリス?」  掠れた声とともに視線が絡む。寝起きのはずなのに、その瞳はどこか甘く、心をとろかすようで。 「っ、す、すみません!」  真っ赤になり、慌てて俯くノアリス。  そんな彼の様子に、カイゼルはふっと笑みを洩らした。 「なんだ、そんなに可愛いことをして……謝る必要はないだろう」 「ぁ、ですが、眠っておられた、のに……触れるだなんて、その……」 「良い。そなたになら、何をされても構わない」 「! い、いえ、そんな……もう二度と、このような邪魔はいたしません……!」 「良いと言っているのに」  くすりと笑みを浮かべ、カイゼルはゆっくりと体を起こした。  はだけたシャツの隙間から覗く逞しい胸板。朝の光に照らされ、その艶やかさにドキリとしたノアリスはサッと視線を逸らす。  カイゼルはそんな彼を眺め、柔らかく小首を傾げた。 「よく眠れたか?」 「っ、は、はい。眠れました。夢も、見なくて……こんなに深く眠れたのは、久しぶりです。カイゼル様のおかげです。ありがとうございます」 「そうか。それなら、よかった」  伸ばされた手がノアリスの頭に触れ、優しく撫でて、そのまま頬に滑る。 「おはよう、ノアリス」 「! お、おはようございます」  触れられた頬が熱い。  突然暴れだした心臓と、どんどん上がっていく体温。 「どうした。顔が真っ赤だ」 「わ、わかりません。なんだか、心臓が、うるさくて」 「……? 体調が悪いのか?」 「ぁ、いえ……そうでは、ないと思います……」  ついさっきまでそんなことはなかった。  恥ずかしいとはまた違う、けれど似たような落ち着かなさ。  それは決して嫌なものではなく、この感情を何と呼べばいいのかわからない。  離れていく手が、名残惜しく感じた。  ほんの一瞬しか触れていなかったのに、そこにはまだ温もりが残っている。  その温かさを逃したくなくて、けれど自分から求めることはできなくて──ノアリスは胸の奥で戸惑いを抱えたまま、そっと俯いた。

ともだちにシェアしよう!