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第60話
穏やかに目を覚ましたノアリスは、ホッと小さく息を吐いた。
怖い夢を見なかった。昨夜はあんなに怯えて眠れなかったのに。
──全部、カイゼル様のおかげだ。
そう思った瞬間、ノアリスは『あれ……?』と違和感を覚える。
昨日、怖くなって、彼に助けを求めて……そして、一緒に横になった……?
ギョッとして上体を起こす。隣を見れば、そこにはまだカイゼルが眠っていた。
烏の濡れ羽色の美しい髪がシーツに広がり、静かな呼吸が胸を上下させている。
「ぁ……ど、どうしよう……」
起こしてしまうべきか、そっと部屋に戻るべきか。
答えが出せず、ノアリスはただじっと眠る王を見つめた。
その安らかな寝顔を見ていると、自然と手が伸びていた。
閉じられたまぶたに指先でそっと触れ、輪郭をなぞるように頬へと添えて──。
「っ!」
はっと我に返る。
何を、あまりにも失礼なことを……!
慌てて手を引こうとしたその瞬間、温かな大きな手に捕らえられた。
指先が逃れるより早く包み込まれ、胸が跳ねる。
閉じられていたまぶたが揺れ、ゆっくりと開かれた。
朝の光を受けた鮮やかなエメラルドグリーンが、真っ直ぐにノアリスを映す。
「……ノアリス?」
掠れた声とともに視線が絡む。寝起きのはずなのに、その瞳はどこか甘く、心をとろかすようで。
「っ、す、すみません!」
真っ赤になり、慌てて俯くノアリス。
そんな彼の様子に、カイゼルはふっと笑みを洩らした。
「なんだ、そんなに可愛いことをして……謝る必要はないだろう」
「ぁ、ですが、眠っておられた、のに……触れるだなんて、その……」
「良い。そなたになら、何をされても構わない」
「! い、いえ、そんな……もう二度と、このような邪魔はいたしません……!」
「良いと言っているのに」
くすりと笑みを浮かべ、カイゼルはゆっくりと体を起こした。
はだけたシャツの隙間から覗く逞しい胸板。朝の光に照らされ、その艶やかさにドキリとしたノアリスはサッと視線を逸らす。
カイゼルはそんな彼を眺め、柔らかく小首を傾げた。
「よく眠れたか?」
「っ、は、はい。眠れました。夢も、見なくて……こんなに深く眠れたのは、久しぶりです。カイゼル様のおかげです。ありがとうございます」
「そうか。それなら、よかった」
伸ばされた手がノアリスの頭に触れ、優しく撫でて、そのまま頬に滑る。
「おはよう、ノアリス」
「! お、おはようございます」
触れられた頬が熱い。
突然暴れだした心臓と、どんどん上がっていく体温。
「どうした。顔が真っ赤だ」
「わ、わかりません。なんだか、心臓が、うるさくて」
「……? 体調が悪いのか?」
「ぁ、いえ……そうでは、ないと思います……」
ついさっきまでそんなことはなかった。
恥ずかしいとはまた違う、けれど似たような落ち着かなさ。
それは決して嫌なものではなく、この感情を何と呼べばいいのかわからない。
離れていく手が、名残惜しく感じた。
ほんの一瞬しか触れていなかったのに、そこにはまだ温もりが残っている。
その温かさを逃したくなくて、けれど自分から求めることはできなくて──ノアリスは胸の奥で戸惑いを抱えたまま、そっと俯いた。
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