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第66話

「……陛下。その前に、大切なお話がございます」 「なんだ」  イリエントの声音に緊張が滲む。カイゼルも自然と背筋を伸ばした。 「デュラシアが動き出したようです。現在偵察中の軍は任期を終え一度引き返しています」 「……そうか」  フェルカリアの西に位置する国、デュラシア。  フェルカリアとデュラシア古くから険悪な関係にあり、いつ戦が起きてもおかしくはなかった。  フェルカリアがルイゼンと同盟を結んだのも、この日のためだ。 「別の軍でも構わないから、偵察は続けるように指示を。時が来れば、フェルカリアへ兵を送る」 「承知しました。……陛下は、いかがなさいますか」 「俺も出る。俺が退けば、兵の士気が落ちる」  即答するカイゼルの声に迷いはない。  だが、その胸裏にノアリスの顔がよぎった。 「その間、ノアリス様は──」  言いかけたイリエントの言葉を遮るように、カイゼルは机上で拳を握りしめる。 「心配だが、仕方あるまい。……あの子とも、きちんと話をする」 「……万能薬は」 「使わない。俺の身に何かあっても、ノアリスに卵を要求するな」  強い眼差しを返すと、イリエントの視線がさらに鋭くなる。 「であれば、陛下は戦に出るべきではありません」 「なに……?」 「国を想うのであれば、この場に留まってください。そして、この国とノアリス様を守ることこそ、陛下の責務です」 「……イリエント、俺は──」 「仮に、……仮にですが、貴方様が戦で命を落とされたら」  イリエントの声が低く落ちる。 「この国は混乱に陥るだけでなく、ノアリス様も再びフェルカリアに連れ戻され、あの非人道的な行為を強いられるでしょう」  カイゼルは息を呑んだ。  戦場に立ち、剣を振るう。それが自分の生き方だ。  だが──もし自分が死ねば。  国は崩れ、ノアリスは再び地獄に囚われる。  胸を締め付けるような現実を突きつけられ、カイゼルは深く俯いた。  確かに、今この瞬間、国とノアリスを守れるのは自分しかいない。 「……絶対に死なない保証があるのなら、お出になればよろしいでしょう。ですが、それにはノアリス様の卵が必要です」 「……わかった。もう黙れ」  低く吐き出すように言い、カイゼルは深く息をついた。  何を選ぶべきか、わかっている。  世継ぎのいないこの国から、自分がいなくなるということが、何を意味するか。 「ルイゼンに留まってくださいますね?」 「……ああ」  イリエントはホッとして肩から力を抜いた。  その様子を見届けながら、カイゼルは静かに立ち上がる。  ノアリスに伝えねばならない。  戦場に出ないと決めた以上、別の責務が生じる。  ノアリスに、そして国に。  彼を守ると誓った自分が、これから何を選び取るのかを。  重い決意を胸に、カイゼルは静かに執務室を後にした。

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