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第69話

「ここにいてくれ。どこにもいかないでくれ」 「……っ」  耳元に落ちた低い声に、胸がキュッと締めつけられる。苦しいのに、同時にどうしようもなく温かい。  声が震れ、涙が滲む。 「なぜ……」  かすれるように零した問いに、カイゼルは静かにノアリスを見下ろした。  真剣な眼差し。逃げ場など与えない、けれど優しい瞳。 「好きだ」  低く、静かに言葉が落とされる。  その一言に、ノアリスの喉は詰まり、視界が涙で滲んだ。 「俺の隣で、笑ってくれ。それだけが……俺の願いだ」  胸の奥がぎゅっと掴まれたように痛む。嬉しいはずなのに、同時にどうしようもない不安が押し寄せてくる。 「……どうして、そんな……わたしなんかに……」  涙声で零れた問いに、カイゼルは優しく答える。 「そなたを幸せにしたいと思ったんだ」  その言葉に、胸が熱くなった。  返せる言葉は見つからず、ただカイゼルの腕の中で安心を感じる。  けれど、朝食の席でのことを思い出した。 「で、ですが、カイゼル様は……想い人が、いると……」 「ああ。だから、それがノアリスだ」 「! ……あ、あの、私には、そういった感情が、分からなくて……」  俯くと頭を撫でられ、再び抱き寄せられる。  全く嫌ではない。むしろその温もりが嬉しくて、胸が甘く締め付けられる。  その大きな手に包まれるたび、不安も、みじめな自分への思いも、不思議と溶けていく。  本当は資格なんてない。妾妃の話に心が痛んだ理由も、わからない。  それでも今だけは――この人の胸の中にいたいと、強く願ってしまった。 「少しずつでいい。俺が嫌でないのなら、少しずつ、受け入れてほしい」 「っ、」  そっと右手を取られ、その手の甲に唇が触れる。  心臓が大きく跳ね、顔が熱くなった。 「必ず、守る。だから、どこにも行くな」 「……っ、はい」  返事をすれば、カイゼルは満足そうに笑った。  伸びてきた手が頬を撫で、その優しさに、ノアリスは思わず頬を押し付ける。  恥ずかしくなって視線を落とすけれど、胸の奥はあたたかかった。  「わふっ」とロルフが鳴く。  カイゼルはハッとして、ノアリスから手を離すと、ぎこちなく笑ってみせた。 「す、すまない。いきなりいろんな話をしてしまって。困らせてしまったな」 「ぁ……いえ。そんな……」  ノアリスは小さく息をつき、まだ胸の奥がざわついているのを感じながらも、少し安心したように微笑む。  その隣で、ロルフが尻尾を振りながら顔をのぞかせる。カイゼルも少し肩の力を抜き、二人と一匹の間に、静かで穏やかな空気が流れた。

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