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第75話
カイゼルはノアリスから名残惜しげに離れると、軍議の間へ向かった。
さきほどまでの柔らかな微笑みは消え、扉を押し開ける頃にはすでに王の顔に戻っている。
中にはブラッドリーとイリエントが待っていた。二人は立ち上がり、国を支える者の鋭い眼差しを向けたあと、深く頭を垂れる。
長く国を離れていた第一騎士団団長ブラッドリーは、選抜した部下と共に敵国の動きを探っていた。デュラシアがいつ動くのか、どこに手を伸ばすのか――一年近くにわたり秘密裏に報告を重ねてきたのだ。
帰還早々、疲れを隠さぬまま簡潔に告げる。
「先に伝えていた通り、デュラシアはやはり動き出しています」
「ええ。ただ、その報せが届いたのは今朝になってからです」
イリエントが眉をひそめると、ブラッドリーは低く返した。
「……仕方あるまい。伝令も人間だ。遠く離れた国に即座に届けられるはずがない」
「ですが、貴方が帰還する直前では、伝令の意味も薄い」
「机上で言うのは容易いな、宰相。我らは実際に敵地に赴いた。文句があるなら次は貴様が偵察に行け」
二人の視線が火花を散らす。空気が張り詰めるのはいつものことだ。
「──よせ」
カイゼルの一言で、場が収まった。
王は団長に視線を向ける。
「ブラッドリーは任務を見事に果たした。伝令もまた役目を全うしたのだ。後ほど労いの酒を贈ろう。今日は報告を終えたら休め」
「……ありがとうございます」
ブラッドリーが頭を垂れる。イリエントはふんと鼻を鳴らしたが、それ以上は口をつぐんだ。
報告は簡潔にまとめられ、今後のことは改めて軍議で決めることとなった。
「ところで陛下、ノアリス様の件は少し伺っていますが、あのように自由にされていてよろしいのですか」
「どういう意味だ」
ブラッドリーの怪訝そうな顔に、カイゼルも同じ表情を浮かべた。
「恐れながら、ノアリス様はフェルカリアの王子。あのように自由にされていては、いつフェルカリアと連絡を取っていてもおかしくはありません」
「……その心配はない」
「なぜそう言い切れますか」
彼は騎士として、国を守る剣としての視点から危険因子を懸念している。
「ノアリスは……フェルカリアの王子ではあるが、塔で監禁されていた哀れな子だ。彼にとってはフェルカリアですら自由を奪った敵だろう。それに、そなたも見ただろう。あの子はとても臆病だ。もし演技なら、俳優になれるほどだろう。……大丈夫だ。何も疑わなくていい。ノアリスは俺の──大切な人だ」
カイゼルの表情はとても柔らかくて、穏やかだ。
イリエントがひとつ深いため息を吐く。
「ブラッドリー、安心なさい。詳しくは話せませんが、私もノアリス様については敵では無いと断言しましょう」
「……承知した」
あの疑い深いイリエントがそう言うのだから、ブラッドリーもそれ以上は追及できない。
だが、ふと口を開く。
「しかし、まあ……陛下と婚姻をなさる予定で?」
「……」
「? 違うのですか? 王妃様となられるのでは? その予定でフェルカリアからお連れしたと聞いておりましたが……」
カイゼルは一度咳払いし、低く答える。
「そうだ。……ゆくゆくは、だがな」
「……私のような一介の騎士が口にすることではありませんが、ノアリス様は我らと同じ男です。お世継ぎは如何なさるおつもりで?」
「どうとでもする。──お前たちはノアリスに世継ぎのことを、今後一切話すな」
「……はっ」
ブラッドリーは渋々ながらも頭を垂れる。
「デュラシアには別の軍を向かわせるように」
「はい」
そう言ってカイゼルは立ち上がる。
報告はそれで終わり。扉を出ると同時に、王の表情が少しだけ緩んだ。
――ノアリスのもとへ、早く戻りたい。
そんな想いで。
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