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第76話

◇  ――口付けを、してしまった。  ノアリスは与えられた部屋でソファに座り、膝の上に頭を乗せて眠るロルフの毛並みを左手で撫でていた。  もう片方の手は、まだ唇に触れたままだ。  柔らかい感触。  何度か無理やり奪われたそれとは、まるで違っていた。  温かくて、優しくて、胸の奥が痛くなるほどだった。 「くぅ〜ん」 「! ロルフ、ごめんね」  いつの間にか撫でる手を止めていたらしい。  ロルフは体を起こして、ペロリとノアリスの頬を舐め、尻尾をふりふりと揺らした。 「ふふ、擽ったいよ」 「ワンっ!」 「……ロルフ、あのね」  フワフワの顔を撫でながら、ぎゅっと抱きしめる。  キスできたことは――嬉しい。  けれど、喜びのままに浸ってはいられなかった。 「……戦が、起こるんだって」  ぽつりとこぼした声は、少し震えていた。  怖い。  怖くて、たまらない。  かつて受けた仕打ちの記憶が、じわじわと蘇ってくる。  実際に戦場に立ち、命を落とす兵士たちには申し訳ない。  けれど――もう二度と、あんな思いはしたくない。 「……こわいね」  ロルフの丸い瞳がこちらを見上げる。  ノアリスは震え出した手を、そっとその毛並みに埋めた。  指先の震えを、柔らかな毛の感触で隠すように。  そんな時、コンコンと扉がノックされる。  驚いて立ち上がったノアリスは、服をぎゅっと握ると「は、はい」と小さな声で返事をした。 「ノアリス、俺だ。入ってもいいか?」 「っ、カイゼル様!」  お忙しいはずなのに、こんなにも直ぐに戻ってきてくださるなんて。  照れくさいようなむず痒さに落ち着きが無くなる。  扉を開けに行くと、彼は柔らかい表情でこちらを見下ろしていた。  ふと目に入った彼の唇に、心臓がドキドキとする。 「お、お忙しいの、では……?」 「ブラッドリーとの話は終えた。急ぎの用はないんだ。……一緒にいてはいけないだろうか」 「そ、そのようなことは、全く……! ぁ、こ、こちらに……」  目を合わせることが出来ないまま、部屋に入ってもらいソファーに隣同士で腰掛ける。  膝の上でギュゥっと手を握っていたノアリスは、突然そこに大きな手が重ねられて体を跳ねさせた。 「少し、震えているように見えたが」 「っ!」 「さっきは浮き足立って急いてしまったが……戦のことで不安だろう」 「ぁ……」 「……戦のことは、詳しく知りたいか? それとも、余り知りたくないだろうか。どちらの方が安心できるか教えてほしい」  穏やかな声。  まるで、壊れものを扱うような優しい響きだった。  ノアリスは指をぎゅっと握りしめたまま、視線を膝に落とす。  知ってしまうのは、怖い。  けれど、そうして知らないままでいることが、どこか裏切りのようにも思えてしまう。 「……知りたいです。でも……きっと、聞いたら……怖くなってしまうと思います」 「それでも、知りたいか?」 「はい……。知らないまま怯えているより……いいと、思う、から……」  言い終えると、カイゼルが静かに息を吐いた。  その手がそっとノアリスの頬を包み、親指で優しく撫でられる。 「ノアリス……そなたは強いな」 「そ、そんな……」 「強いよ。怖くても向き合おうとする人は、皆そうだ」  胸の奥にじんと温かいものが広がる。  ノアリスは目を伏せたまま、少しだけ微笑んだ。 「まずは、そうだな……この戦は一年ほど前からずっと懸念していたものだ。しかしこれは我が国が本陣となっているわけではなく、そなたの国フェルカリアとデュラシアの戦いだ」 「ぁ……そ、そういえば、カイゼル様がフェルカリアにお越しになった時、戦が起こると、聞いた気がします……」  あの時、抗おうとして侍女に責めるようなことを言われた。  それを思い出して、胸が痛む。 「ああ。この戦を懸念していた。それはフェルカリアも同じ。だから同盟の話が出て、俺が赴いた」  静かに頷いて、彼を見つめる。 「我が国は武力を誇っている。だからフェルカリアはそれを欲していて、我々は提供することを約束し、その代わりにノアリスを得たわけだ」 「はい……」  ノアリスが小さく返事をすれば、カイゼルは続きをゆっくりと話し出した。

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