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第91話
しかし、そんな穏やかな時間は、突然打ち砕かれた。
扉が激しく叩かれ、ノアリスは「ひゃっ!」と短い悲鳴を漏らし、肩を跳ねさせる。
カイゼルも一瞬で覚醒し、隣にいたノアリスの肩をそっと抱き寄せた。
ロルフは低く唸り声をあげ、扉の前へと警戒するように身体を構えながら、ノアリスの横に寄り添う。
「──ノアリス様! 陛下はいらっしゃいますか!」
聞き慣れたイリエントの声。しかし、そこに混じる焦りはいつもと違う。
ノアリスは思わず「は、はい……!」と返事をした。
扉が開き、珍しく動揺を隠しきれないイリエントが姿を見せる。
カイゼルは鋭い視線を向け、低く問いかけた。
「何事だ」
その声音は冷静でありながら、部屋の空気を強く緊迫させる。
ノアリスは胸の前で両手を握りしめた。
肩に置かれたカイゼルの手の温もりだけが、心をかろうじて支えてくれる。
イリエントはちらりとノアリスに視線を向け、言い淀む。
カイゼルはその視線の意味を読み取ったが、しかし短く命じた。
「話せ」
その一言に押されるように、イリエントは息を呑む。
「──フェルカリア皇太子、ルーヴェン殿下がこちらに向かっているとのことです」
ノアリスの世界が一瞬で止まった。
まさかこの場で聞くことになるとは思わなかった兄の名。
忘れようとしても忘れられない、兄──ルーヴェン。
息が吸えない。
胸が軋み、耳の奥でジジッと砂嵐が鳴る。
「……なぜだ。戦はどうした。今は真っ只中のはずだ」
カイゼルの声は低く険しい。
イリエントは首を振った。
「詳細はまだ分かりません。ただ……急ぎ向かっているという報せだけが……」
「……そうか」
その会話はすぐ隣で交わされているはずなのに、遠くの出来事のようだった。
「っ、ノアリス!」
「ノアリス様っ!」
足元がふらつく。
立っていられない。
床へ崩れ落ちそうになったノアリスを、カイゼルが慌てて抱きとめ、そっとソファへ座らせた。
「安心してくれ。そなたには会わせないようにする」
「っ、か、カイゼル、さま……」
そっと抱き寄せられ、ノアリスはその胸に顔を埋めた。
兄という存在、そして続いている戦──嫌な記憶ばかりが、容赦なく蘇る。
身体が震え、指先が氷のように冷たくなっていく。
それに気づいたカイゼルは、ノアリスの手を優しく包み込んだ。
その温もりと言葉に、ノアリスはようやくゆっくりと息を吐くことができた。
「──イリエント、ブラッドリーを呼べ」
「はい」
そうして、ノアリスが少し落ち着きを取り戻した頃、カイゼルは低く命じたのだった。
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