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11.ひと時の休息

 からだがあつい。ぞくぞくする。きもちくなりたい。  そればかりが頭を巡って、クロードはいつの間にか瞑っていたらしい目をゆっくりと開けた。ううう、とだらしない声が漏れたのを何処か遠くの方で認識する。体が横たわっているのは、理解できた。部屋に見覚えはない。  あれ、おれ、どうしたんだっけ。  おもむろに視線を動かすと、誰かが自分のそばに立っているのが見えた。だれだっけ、と記憶の中から探そうとするより前に、その人の名前が口から漏れた。 「だんて」  回らない舌。それでもダンテは小さく笑みを浮かべて、うん、と頷いた。じわじわとまた熱を思い出す。口の中に溢れ出す唾液を懸命に飲み込みながら、おかしいな、と思う。  だんてには、もうあえないはずだったのに。あれ、なんでだっけ。なにがあったんだっけ。だめだ、おもいだせない。でも、だんてにあいたい、とおもったんだよな。なんでだっけ。わかんねぇ。でも、なんでかな。すごく、さびしい。ものたりない。からだのおくが。きもちくなりたい。ほしい。だんてが。  手を伸ばそうとして、途中で止まった。視線を緩慢に動かすと、手首が何かに拘束されているのが見えた。手首を包むのはふわふわとした柔らかいバンドだが、それをベッドの柵と繋いでいるのは短い太めの鎖。なにこれ、じゃまだなぁ。そんなことを思いながら手首から、視線をダンテに移したクロードは舌足らずに言った。 「とって、だんて」  ぐっと唇を引き結んだダンテは、首を横に振った。その顔が苦しそうで、クロードは首を傾げる。 「なんで?」 「なんでも。アンタが元に戻るために必要なんだ」  言葉が理解できずにクロードは眉を顰めた。なんのはなしだ。  でもそれも、すぐにどうでもよくなった。下半身が熱くて、むず痒いのを思い出したのだ。何処かで味わったことのある感覚なのに、思い出せない。ダンテから視線を離して、下半身を見る。ゆったりとした薄水色の病衣を着ているのに、それでも余裕なく股の所がテントを張っている。  ああ、だから、からだがあついんだ。  ひどく頭が重い。思考もままならない。しかし、病衣の中心が何故膨らんでいるのかと、何をすれば治るのかという答えはすぐに導き出せた。 「なあ、だんて。きもちいことしよ」  ダンテの目元がぴくりと跳ねた。ふわふわとした頭では、こいつほんとかおがいいな、などと思うだけで、目元を動かした意図を汲み取る事は出来なかった。  ふーっ、と息を吐いたダンテが片手で顔を隠す。 「ごめん、クロード。出来ないんだ」 「なんで? したい」 「……ごめん」  また謝られる。でもその間にも熱を上げていく欲は止まる事を知らない。視界が涙で滲む。 「だってつらいんだ。だんて、たのむ」 「ごめん。アンタを廃人にしたくない」  ダンテに断られたのだと分かる。何か理由があることも分かるけれど、内容まではふやけた頭では理解できなかった。  なんでだよ。  その言葉ばかりが頭をぐるぐると回っている。ぼろぼろと溢れ出した涙は止まらない。 「いじわるっ、すんなよぉっ……! そんなにっ、おれが、いや、ッ、なのかよ」  子どもみたいにぼろぼろと泣いてしまったクロードに、ダンテは唇を噛み締めてまた、ちがうよごめん、と言った。滲んだ視界で、彼の唇からゆっくり垂れる小さな血の赤がやけに目についた。  なんでおまえも、いたそうなんだ。  沸いたはずの疑問はぐずぐずになった思考にすぐに消えて、みっともなく啜り泣く事しかできない。思考だけではなく、涙腺もぐずぐずになってしまったらしい。熱を持て余した体をどうにかしたいのに何も与えられないせいで、もどかしさばかりが募っていく。  どうにかしたくて勝手に動く腰も、気持ちよさは届けてくれなくて、余計に涙が溢れる。やだやだと駄々っ子のように首を振っても、ダンテは気持ちよくしてくれることはなかった。  ううう、と漏れる声も涙も止まらない。なさけない。みっともない。頭の片隅でそう思ってもすぐに、きもちくなりたい、に塗りつぶされて、自分で自分をコントロールできなかった。ぎゅっと目を瞑る。はやく、らくになりたい。  ふいに柔らかく握られた手。温かかった。瞼を上げて見えた顔に、また首を傾げてしまった。  ダンテは眉を下げて今にも泣いてしまいそうな顔をしていた。  おまえでもそんなかおするんだな。  なんだか新鮮で自然に漏れた笑みとともに、手を握り返す。 「なくなよ、だんて。だいじょうぶだよ」 「……ふっ、泣いてないよ。でもありがとう。アンタは優しいね」  表情は緩んだのに更に強く握りしめられた手が、少し痛かった。痛みのおかげか、さっきまで頭を占めていた『きもちくなりたい』が薄らいでいく。それを知っているかのように目元をそっと手で覆われる。じんわりとしたぬくもりに、瞼が勝手に閉じていく。 「眠って、クロード。次に起きたときには元通りだよ」  ねむって、という言葉しか理解できなかった。でもさっきまでの苦しさはもう遠かった。  ダンテの手が吸い取ってしまったのかもしれない。なんて、意識が落ちる寸前にクロードはなんとも馬鹿らしいことを思った。  ***  静かな寝息が聞こえてきて、目元を覆っていた手をゆっくりと離す。  理性が吹き飛びそうになる瞳は、瞼の向こう側に隠れている。ふーっと長い安堵の息を吐いた。  クロードは多分気づかなかっただろうが、横たわっている彼の左腕には、点滴の管がつながっている。更には、違法薬物の副作用で彼が暴れてもいいように、寝るのに支障がない程度に足首も固定されていた。病衣なのも、何もかもが垂れ流しになってもすぐに着替えさせられるようにだ。目元も泣き腫らしたせいで、真っ赤になっている。痛々しい。その一言に尽きるが、体内の薬物が全て抜けるまではこのままにするしかない。  そっと親指で目元を撫でた。  本当は死ぬほどクロードを抱きたかった。あんな顔で頼まれて耐えられるやつがいるなら教えてほしい。でももしも手を出してしまったら、いつものクロードはもう二度と元には戻らない。子どものようにふわふわとした事ばかりを言って、可愛くおねだりしてくる、快楽の奴隷になってしまう。  だからダンテは、自分の唇を噛んででもその誘惑に耐えたのだ。  手を握りっぱなしだったのを思い出して、力を抜いて離そうとした。しかし、どんな力をしているのか、クロードはその手を離そうとしなかった。クロードを見る。 「どうして、ここから消えようとしたの」  こんなに強く手を握ってくるのなら、何故。  嫌われたわけではない、と思う。消える直前のクロードは確かに腹を立てていたけれど、本当に嫌がっていたようには見えなかった。何か気に触るようなことをしただろうか。分からない。クロードのように人心掌握術に長けていたら理解ったのだろうか。いつもいつも、気まぐれの猫のようにスルリと躱されてしまう。  本音を曝け出しても、この手をとってと差し出しても、クロードは不敵に笑って逃げていく。  このまま逃げる気ならいっそ、捕まえて閉じ込めてしまえば。  そう考えたことは一度や二度ではない。でもそれでは駄目なのだ。きっとそんなことをしたら、一生クロードは心を明け渡してはくれなくなるだろう。情報屋としての彼の腕は確かだ。彼が本気になれば、情報戦で確実に負ける。捕まえる前に消えてしまうに決まっている。  だからこそ。 「ダンテ」  不意に名前を呼ばれた。一瞬で思考を切り替えて振り返れば、甘ったるい煙草の臭いが鼻腔を刺してきた。思わず顔を顰めると、なははっ、とその煙草の臭いを漂わせる本人に笑われた。 「それやめろって言っただろ、アザミ」 「いやでーす、って私も言ったデショ」  ケラケラと笑いながらダンテの隣に並んだ白衣の彼女は、ピンクの頭髪をしたマッドサイエンティスト、否、研究者だ。いつも甘ったるい細い煙草を口にしているせいで、いかんせん臭いがキツイ。薬学に精通し、裏社会のみならずカタギに回るドラッグやら新薬、そして人間の体に日々ご執心だ。ダンテにとっては育て親のようなものでもあるが、唯一弱みを握られている相手でもある。 「どう? クロードちゃん」 「いまやっと寝た。だから静かにして」 「ええ? あんた襲わなかったの? えらいね~!」  よーしよしよし、と頭を撫でてきそうになった手をひらりと避けて、ジト目を向ける。当の本人は気を害した様子もなく、どれどれ、と折角閉じていたクロードの瞼を勝手に持ち上げて、覗き込んでいた。 「うんうん、だいぶ充血も治まってきたね。口の中は、っと。うん、異様な粘膜の赤みも引いてきてる。」  引き剥がしてやりたいが、診療の一貫を邪魔した時点で、追い出されるのはダンテの方だ。だから渋々その様子を見守っていた。 「新薬だったけど中和が上手くいったかな?」  のだが、聞き捨てならない言葉が聞こえて、出来るだけ声を抑えて突っかかる。 「はぁ!? お前クロードで治験したのかよ!?」 「何いってんの、当然デショ」 「ばっ…! かじゃねぇの!? 失敗したらどうするつもりだったんだよ!」 「はぁ~? 一任するって言ったのはあんたなんだから、どうなってもあんたの責任に決まってるじゃん」 「ッ、お前…!」 「ははっ、ウソウソ。失敗しても、薬物の影響が通常通りか少し長引くだけで、死に至ることはないから」  アザミの言葉に、言い募るつもりだった文句が引っ込んでいく。ニヤニヤと笑うのが鬱陶しい。 「そんなに必死になっちゃって、ホントにクロードちゃんのこと大事なんだねぇ」 「……だったら何。悪い?」 「まさか! 嬉しいじゃん。あんたに大事なヒトが出来るの」  ほら、と足で寄越された丸椅子。ありがたくそこに座って、クロードを見る。  大事なヒト、と呼ぶには自分の中に渦巻く感情はふさわしくない気がする。絶対に他人に奪われたくないヒトではある。でも大事にできているかと聞かれるとそうではない。子どもの頃、壊れかけのテレビで見た恋愛ドラマとは程遠いのは確かだ。  ほい、と差し出されたのはマグカップ。ふわりと香った匂いで紅茶だと知る。 「ありがと」 「うん。んでさ、この子の何が、あんたに深く刺さったの?」  隣に同じように丸椅子に腰掛けたアザミが、興味津々に目を輝かせてくる。寄せられた体から少し離れるようにしてから、ダンテはひとまず紅茶を飲んで、問われた答えを考えてみる。 「何だろうね。僕自身、分かんないや」 「そうなの? こんだけご執心だから何か明確なきっかけがあるのかと思ってたわ」 「ないね」 「じゃあ顔が好みとか、セックスの相性がめちゃくちゃ良いとか、それの延長線?」 「顔も好きだし、相性も良いけど、延長線かと言われると違う気もする」 「ふーん。別にまあそれでもいいけど。ただ『なんとなく』だとクロードちゃんは納得しないかもね」 「……は?」    反射的に見たアザミは、マグカップを片手にふーっと煙を吐き出しながらクロードを見ていた。その顔に揶揄するような色はない。派手なピンク色がやけに目についた。 「だって、あんたみたいな男が理由もなく自分に好意を寄せてきてるって、一瞬は嬉しいかも知れないけど、不安じゃない?」 「なんで」 「理由がないってことは、いま好かれてるのは一瞬の気の迷いですぐに飽きられるかも、って思うデショ。明確な理由が全てではないけど、クロードちゃんみたいな頭の良い子は、理由がほしいタイプだと思うし」  クロードを見る。 だから、逃げたのだろうか。手を離して、この街から居なくなろうとしたのだろうか。眠っているクロードに胸の内で問いかけても、答えが返ることはない。  そのまま考え込むように固まってしまったダンテを、アザミは優しい眼差しで見つめてから、ぽんぽんと肩を叩いて立ち上がった。  若者の恋って良いねぇ、なんて思いながら。

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