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13.私のよすが

 はぁ、と重苦しい息が口から溢れて、床へと沈んでいく。  用はすでに足したが、部屋に戻りづらくて何個かある個室の便座に腰をかけている。  本当なら早くベッドに戻って休息を取る方が体にいいのだろうが、ダンテとイイ仲であろうアザミと二人きりなのは、気まずいのだ。  体が弱っている時は、精神まで軟弱になりやすい。それを身を以て経験している。  だいたいダンテもイイ仲の人がいるのなら、元から教えてくれていたら良かったのに。それなら体の関係を持つのを絶対に断っていた。いや、これは八つ当たりだな。  そう思いながら、また息を吐く。  ダンテとアザミの仲睦まじい光景を見るのは嫌だった。いっそのこと、今から逃げ出してしまおうか。どうせ情報屋からは足を洗うつもりだったし、此処が何処だか分からないが、とにかく適当に歩けば街に出るだろう。でも流石に寝間着で出るのは問題だろうか。  あれこれ考えていたクロードの意識を遮ったのは、勢いよく開いた扉。  一瞬にして考えが吹き飛んだのは、その音の大きさのせいだけではなかった。 「……ダンテ?」  そこにいたのは、今まさにクロードの頭を悩ませている人物。  扉の真正面に位置する個室に居たせいで、ダンテの顔が良く見えた。しかも何やら息を切らせていて、その表情には余裕なんて微塵もない。クロードを見た途端、その表情はわずかに緩む。長い脚を動かして目の前に来たダンテは、質の良いスーツの裾が床につくのも構わず目の前に腰をおろした。 「何してるの、こんなとこで」 「いや別に何も」  そう答えれば、はーっと目の前で溜息を吐いたダンテに両手を取られる。引き寄せられるがままダンテの額にたどり着いた。まるで何かに祈るように、ダンテは頭を下げて小さな声でボヤく。 「戻ってこないから心配した。アンタが倒れてるんじゃないかって」 「それは、うん、悪かった」 「ううん。アンタが無事ならいい。――部屋に戻ろう、クロード」  手を掴んだまま立ち上がったダンテを見上げる。小さい子が母親におねだりをする時のように、やわく手を引っ張ってくるダンテは、随分と緩んだ顔をしていた。  なんでそんな、すげー嬉しい、みたいな顔するんだお前は。俺に向けて良い顔じゃないだろ。  そう思っても口からは出さない。そんな未練たらしいことをぶつけるわけにはいかない。  ああ、と頷いて素直に立ち上がる。でも部屋に戻る前に、伝えておかないといけないことが山程ある事を思い出した。  足を止めて下を向いたクロードに、ダンテはわずかに首を傾げた。 「クロード? どうしたの?」  もう二度と逢えないと思った時、後悔した。だから、ちゃんと礼と別れは伝えておくべきだ。  ぐっと歯を噛み締めてから、クロードは顔を上げた。 「お前のおかげで、本当に助かった。お前が助けてくれなかったら、今頃俺は自我も失って人間以下の生活をしてたと思う。ありがとな。手を|煩《わずら》わせたことも謝る。全快して此処を出たら、もう二度とこんな面倒かけないようにする。ホントに悪かった。もう少しだけ厄介に、」 「―――ちょっと待って」  伝えたいことを全部言ってしまおうと舌を回していたクロードを止めたのは、険しい顔をしたダンテだった。 「もう二度と面倒かけないように、ってどういう意味?」 「嗚呼、そうだった。お前には言ってなかったよな。俺、情報屋辞めて、この街から出るつもりだったんだよ。その途中で嵌められて、」 「――なんで」  握りしめられた手首が痛い。  なんで、なんて。そんなの決まってる。俺が嫉妬心に負けてその矛先をお前や、お前の大事なヒトに向けないようにだよ。恋に狂った人間になりたくないから。みっともなくお前に縋る自分を見たくないから。そんなこと、お前に言えるはずがないし言うつもりもない。  ははっ、と乾いた笑いで誤魔化した。 「そんなの俺の都合に決まってるだろ」 「どんな」 「……お前に言う必要ないくらい本当に些細なことだ」 「些細なことなら教えてくれてもいいだろ。明確な理由を聞かなきゃ納得できない」  絶対に理由を言うまで離さない。  そんな声が聞こえてきそうな眼光だった。  瞬きもせずに、視線の先を常に捉えようとするダンテに、心の底まで覗かれてしまいそうな気すらする。でもそれで怯むクロードではない。心を隠すのは得意だ。それが勝手を知っている相手なら尚更。  鼻で笑ってから言ってやる。 「前にも言ったはずだ。面倒事に巻き込まれるのは御免だって。お前と俺が恋仲だと勘違いした組織に捕まってギャング同士の抗争の餌になるのも、まっぴらなんだよ」  嘘は言ってない。しかし、想いの全部ではない。  圧倒的な後ろ盾を持たない自分は、ダンテを敵視する組織の格好の餌食だ。それを利用された上に、ダンテに迷惑をかけるのが嫌だった。それ以上に、こうして一回助けてもらったせいで、次も助けてもらえるかもと淡い期待を持つ自分が鬱陶しくてたまらないのだ。ダンテは冷徹漢だと言われるが、実のところ、一度懐に入れた存在には、惜しみなくその手を差し伸べる。今回のクロードの一件のように。でもきっとそれが何回も繰り返されたら、さすがのダンテでも嫌気がさすだろう。  馬鹿みたいな期待が裏切られた瞬間の絶望を味わいたくない。  体の死よりも先に、心が死ぬ瞬間を味わいたくなどないから。 「それに怯えて暮らすくらいなら、俺は顔を変えてでも此処を離れる。――ほら、俺の都合だろ? 納得できたかよ」  流石のダンテもこれで引き下がるだろう。合理的に物事を考えるダンテは、組織とクロードを天秤にかける。当然ギャングの頭目として取る選択肢は、組織だろう。どう考えても団体と個人では益が違いすぎる。 「クロードの言い分は理解できた」  そうだろうな、と思った刹那だった。 「じゃあ、僕も一緒に行く」 「…………、はぁ!?」  一瞬何を言われたのか理解できなくて、反応が遅れた。  さっきも言ったが、頭目として正しい選択は、組織だ。じゃあここでお別れだ、とでも言われるのかと思いきや、一秒足らずで返ってきた答えは『一緒に行く』だった。  全く予想だにしない言葉すぎて思考が鈍る。いやいや何言ってんだ。もはや笑えてきた。 「ははっ! お前徹夜でもしたのか? 思考力がゴミすぎるだろ。……大体、お前は組織のトップだ。なのにどうやって俺と一緒に行くんだ?」 「そんなの簡単だ。頭目を辞めれば良い」  クロードは今度こそぽかんと口を開けてしまった。  コイツ、今なんて言った? 頭目を辞めれば良い? 俺の聞き間違いか?  頭の中が大混乱を極めている。  普通に考えれば、こんな簡単に頭目という立場を捨てる人間なんていないはずだ。少なくとも、クロードが知っている人の中にはいない。立場が上になればなるほど、その座に固執する人間ばかりだ。しかもダンテは、この街を裏からも表からも牛耳っている組織の|長《おさ》なのだ。それなのに、辞めるだなんて。 「ハッ! まさか本気じゃないだろ? 口先だけならなんとでも言えるもんな」 「冗談でこんなこと言わない。信じられないなら、今アンタの目の前で辞める」  おもむろにスーツから通信端末を取り出したダンテは、何やら画面を操作して何処かに向けて通話ボタンを押した。  まさか、そんなはずは。  思考停止しかけているクロードをそのままに、相手方と電話がつながる音がした。 「オレだ。取り急ぎ組織の人間を全員集めて欲しい。いや、そうじゃない。オレの後継を今すぐ決めたいん、」 「わぁああ!? 待て待て待て!」  急いで端末を取り上げて通話を終了させる。  電話の向こうからも『はぁ!?』と動揺した声が聞こえていたから、クロードよりも遥かに寿命が縮まったに違いない。なのに電話をかけた張本人は、端末を握りしめているクロードを不満げに見ている。 「なんで邪魔するんだよ。今辞めるところだったのに」 「馬鹿かお前! そんなこと突然言ったら、お前の部下ほぼ全員の心臓が止まっちまうぞ!」 「そんなに軟弱な連中じゃないから心配ない」 「お前、人の心はないのか?……はぁ、本気なのは理解ったから、一旦落ち着け」  端末を手渡しながらそう言えば、一応は納得してくれたのか、そのまま端末はポケットへとしまわれた。  頭をガシガシと掻いて、さらに一つ溜息を吐く。 「だいたい、頭目なんて立場をそんなに簡単に手放していいわけないだろ。お前ホント意味わかんな過ぎ」  ネジが外れてるとは思っていたが、まさかここまでとは思わなかった。  しかし分からない。  どうして自分相手にここまでしようと思うのか。 「他の奴のことは知らないけど、僕にとってはその程度のものだよ。組織はただの手段だ。アンタと生きるための枷になるなら要らない」  淡々と言葉を返すダンテに、間髪入れずに応戦する。 「はぁ? 何言ってんだ。組織は、お前が今まで生きてきた証みたいなもんだろ? ……それとな、お前はどうだか知らないが、俺はお前にほぼ全て見せてる。知っての通り、お前が人生を賭けるほど大層なものは持ってないし、大層な人間でもない。全部見てるお前なら分かってるだろ」  自分で言ってて自分をズタズタにしている自覚はあるが、事実なのだから仕方ない。  クロードが持っているものは大抵ダンテも持っているし、クロードが持っていなくてダンテが持っているものの方が遥かに多い。 「だから、底が知れてる俺の為にお前が煩わされる必要なんてないんだ。お前の前に二度と姿を現さない。それがお前にしてやれる最大限の礼だ。そうだろ?」  だからこそ暗に、お前にとっての俺自身には何の利もないのだから構わなくていい、と言ったのだが。  ダンテはその瞳に強い怒りを滲ませた。 「……アンタ、全然分かってないよ、クロード」 「あ? 聞こえねぇよ」 「全然分かってないって言ったんだッ!」  壁に背中を押し付けられて、僅かな痛みが体に走る。  何しやがる、と睨み上げた先。  ダンテは、憤怒と悲哀をごちゃ混ぜにしていて、見てるこっちが苦しくなるような表情で、クロードを見ていた。まさかそんな顔をしてると思わなかったクロードは、息を呑む。  お前、なんて顔してるんだよ。 「組織も地位も、アンタがいなきゃ何の意味もない! 僕の世界にアンタがいないのなら何もかも無駄なんだよッ……!」  感情で顔をぐちゃぐちゃにしたダンテは、くそッ、と悪態を吐くとそのままクロードの肩に額を預けて黙ってしまった。  僅かに彼の背中が震えている。今、彼の顔を見ることは出来ないけれど、泣いているような気がした。  伸ばした手で優しくその背中を撫でる。  こんなに感情を剥き出しにするダンテを見るのは、初めてだった。  そして、こんな熱烈な告白を誰かにされたのも。   「ふっ、あはは」  ダンテの言葉を噛み砕く度に、堰き止めようがないほど込み上げてきた熱。誤魔化すように笑った。頭を上げようとしたダンテの後頭部を、すかさず押さえる。今、顔を見られたくなかった。 「、クロード」 「狂ってるよ、お前。ほんと、ばっかじゃねーの」  滲んでしまった声に、ダンテが気付いてないと良い。でも彼は妙に勘がいいから、バレてしまっているかもしれない。せめてもの抵抗で、顔を見せずに彼の頭を肩に抱き込んだ。 「あーあ、絶対にお前にだけは堕ちたくないって思ってたのになぁ」  独り言のようにボヤいたクロードに、ダンテは何も言わなかった。しかし、そっと背中に回してきた腕で、苦しいほど抱き竦めてきたから、本当に憎たらしいくらい正解を勝ち取り続ける完璧な男だな、と諦念に似た想いを抱いたのだ。  

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