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30.食い違い
扉を見つめても、クロードは姿を見せない。
ずいぶんと時間がたった気がするのに、見た腕時計はまだ五分すら時を刻んでいなかった。しまいには貧乏ゆすりすらしてしまう始末。
一か月ほど前のクロードも、こんな気持ちだったのだろうか。待たす側よりも待たされる側の方がより時間を長く感じる、という説を身をもって体験することになるとは思わなかった。
もう一度扉を見る。
この部屋から出るな、と言われたけれど、外を覗くくらいいいんじゃないか。
立ち上がって、扉へ足を進める。耳を澄ませても足音は聞こえてこない。
頭の中に入っているこの屋敷の地図では、アルマンの寝室は今ダンテがいる部屋の奥の左手の扉の向こうだ。本来ならイザベラの部屋はその更に奥の扉の先になる。しかし彼女にとってこの場所はまさに地獄の思い出の中心地。だからこそ、今は別の部屋で寝ているのは理解できる。理解できるが、あまりにも時間がかかり過ぎている気がしてならなかった。
ドアの取っ手に手を伸ばしたのと同時。
「悪い、待たせ……、うわ! なんでお前こんなとこに立ってんだ」
扉の目の前に立っていたダンテに心底驚いたらしいクロードが、足を一歩引いて目を見開いていた。クロードの顔を見た途端、安堵が全身を巡っていく。
よかった。戻ってきた。
抱き締めようと伸ばした両手をするりと避けたクロードは、白い目を向けてさっさと部屋のソファに行ってしまった。
「抱き締めようと思ったのに」
不満を口から出せば、クロードに鼻で笑われた。
「何も聞きたいことがないならそれでもいいけどな」
「聞きたい」
「じゃあ座れって」
指をさされたローテーブル越しのソファ、ではなく、さっきイザベラが座っていたクロードの隣のソファに腰を下ろして彼を覗き込む。少し目を丸くしたクロードだったが、呆れたような顔をしただけで、追っ払われることはなかった。
「そこ、話しにくくないか?」
「ここがいい」
「……まあお前がいいならいいけど。で、何が聞きたい?」
「全部。どうしてアンタがボスなのかも、消えた一か月何をしてたのかも、このピアスを置いていった意味も」
ポケットから出したのは、前に彼に贈ったピアス。箱に大切に入れて今日、持って来た。
それを見たクロードは、ああそれか、とニンマリと笑ってみせた。クロードがダンテの元に帰ってくるつもりはない、という意思表示が頭を過って、思わずひじ掛けに置かれた手首を思わず掴む。
「そんなに強く掴まなくても逃げたりしない。でもまあ、そのピアスを置いていった理由から話すか。それを置いていったのは、お前のところに帰ってこれるかどうか分からなかったからだ」
クロードの言葉に引っ掛かりを覚えて、首を傾げる。何故帰ってこれるか分からなかったのだろう。ダンテは、どれだけ時間が掛かろうと探し出すつもりでいたし、待ってろ、というなら待つつもりだった。なのに何故。その疑問に、クロードが的確な答えをくれた。
「お前が来ない時点で何かの作戦中なのは解ってたからな。部外者の俺がそれを解き明かすには、時間が掛かると思ったし、最悪の事態も起こり得るって思った。道半ばで俺が殺される、とかな。その時にほかの奴にそれを取られるのは癪だろ? だから置いてった。ヘマするつもりはなかったし、今回は協力サポーターが力を貸してくれたから、それも杞憂だったけどな」
「強力なサポーターって誰」
「ツッコむとこそこかよ」
「他のとこは納得はしてないけど理解はできた。でもサポーターは僕でもできたのに」
「普通に考えて無理だろ、あほ。お前はイザベラ嬢の影武者の彼女と組んでたんだしな」
確かにクロードの言う通りではある。あるが、そこは自分が力を貸したかった。クロードに関して、ダンテは際限がない。クロードが望むならなんだって手を貸すつもりでいる。しかしダンテ自身、その主張が今回の自分の対応と相当な矛盾を抱えていることも理解している。
だって、ダンテはクロードの呼び出しに応じなかったのだから。
「いつ彼女が影武者だって気付いて、僕と彼女が組んでるって知ったの?」
「彼女がイザベラ嬢のそっくりさんである可能性は、あのバカげたパーティの時から考えてた。イザベラ嬢を知ってる人が彼女に違和感を持ってたし、俺も俺で引っ掛かることはあったからな」
その時のことを思い出したのか、僅かにクロードの眉間に皺が寄る。
一度、影武者であるサナがクロードに会ったのは知っていた。
そう仕向けたのはダンテだったから。
ギャング同士の抗争が起きたとして、クロードが巻き込まれる可能性はゼロじゃない。彼の命が危機にさらされるくらいなら、自分から少し離れた場所にいてくれる方が良い、という気持ちが大半を占める中で、嫉妬してくれるんじゃないか、と滲み出た少しの欲望。
それを実行するためにサナに頼んだのだ。
「色んな情報を集める過程で、彼女が本物ではないことと、アルマンが蝙蝠のように抗争を仕掛けたがってるのが分かった。ファヴェーロ一家の団結が弱くなってたおかげでな」
「……まさかアンタ、アーノルドを最初に落としたのか?」
そんな詳しい情報を知っているのは、アルマンの右腕であった彼しか思い浮かばない。そう思っての言葉だったが、クロードは小悪魔のように笑って、ご名答、と言った。
「そもそもアーノルドは、先代、つまりアルマンの父に忠誠を誓った男だった。でもアルマンは先代とは全く正反対のクズだった。色々限界だったんだろうさ。イザベラ嬢のことも本当に気に病んでたしな。でも実行できなかったのは、アーノルドをはじめとする先代からの構成員たちは、アルマンに家族を人質に取られてたからだ。だから俺が代わりに、って感じだな」
「そのサポーターの手を借りて?」
「まあな。俺がアルマンに色仕掛けをしてる間に、ザコ共はサポーターに借りた人手に、」
「ちょっとまって色仕掛けってどういうこと? アンタの体をアルマンに触らせたってこと?」
聞き捨てならない言葉だった。クロードのやり方に口出しする資格がないことは、頭では理解している。しかし心は違った。自分への当てつけじゃないのか、と思ってしまうほど。
語気を少し強くしたダンテに、クロードは薄く笑うだけだった。
「だったらなんだ? サナとイチャつく様子を俺に見せつけた上に、俺の連絡をまるきり無視してたお前が、そんなこと言う権利があるとでも?」
その笑みには、明らかに冷ややかな怒りが滲んでいる。
一ヶ月前のダンテの選択を許さない、と言われているような気がして。結局黙るしか無かった。
ふん、と鼻を鳴らしたクロードは再び話し出す。
「まあ俺の一ヶ月はそんな感じだ。最後になんでボスになったか、だが。そこに特に理由はない。ただの成り行きだ」
「成り行きでボスになれるもんじゃないだろ」
「別に大したことはしてない。アルマンを殺した、それだけだ。でも組織的には心穏やかじゃないよな。頭を失った、と周りの敵対組織に知られたら、格好の的だ。だから、とりあえず顔を知られていない俺が据えられた、って感じだな」
確かに成り行きではある。でもそれを簡単に引き受けてしまうのは如何なものだろうか。頭になるということは、矢面に立つ可能性が限りなく高いということだ。それをずっと続けていく気なのだろうか。
クロードのやることに口出しはしない、という決意が今揺らいでいる。
険しい顔をしたダンテに、クロードは面白そうに笑った。
「大体の流れは以上だ。他に質問は?」
「……このままアンタはファヴェーロのボスとして生きてくつもりなの?」
ダンテが一番気になっているところは、そこだった。
クロードに自由でいてほしい、と思うのはダンテの勝手だ。理解している。彼はダンテの言うことを聞くようなタイプじゃない。だからこそ、今回は巻き込むまいとわざと遠ざけるようなことをした。直接的な関わりが切れた、と周りの人間に思い込ませることが出来たら、クロードに余計な火の粉が飛ばないと思ったから。
「バカ言えよ。俺がボスのタマか?」
「でもアーノルドはそう思ってないだろ」
あの大男の態度から見るに、そのまま忠誠を誓ってもおかしくない、と思わせる凄みがあった。演技にも見えないし、全く気に入らないことに、彼はクロードの忠実な番犬のようにダンテには見えた。きっと彼は本気で、クロードを頭に据えようとしている。
だというのに当の本人は、ありえない、と肩を竦めた。
「アーノルドとは利害が一致しただけだ。アルマンを始末して、イザベラを自由にする。そのついでにお前らとレンツィとの間にある負の遺産の精算をする。俺が上に立つ事で、お前は無闇矢鱈に殺したりしないだろうと思ってな。それ以上のことを彼は求めてない」
「だけど、」
食い下がるダンテに、クロードは一つ息を吐いた。
「もしお前の予想が正しかったとしても、俺はそれを引き受けても良いと思ってる」
「ッ、絶対に駄目だ!」
思わず声を荒げて立ち上がった。
ギャングの世界は過酷だ。情報屋として関わるならまだしも、自らボスになるということは、火の海に自ら身を投げるのと同義だ。火の海に飛び込ませないために遠ざけたのに、それじゃあまるで意味がない。
ダンテを見上げるクロードの瞳は凪いでいた。感情を露わにすることもなく、怒りも何もない、冷静そのものの瞳だった。
なのに、自分は。
「アンタが自由に情報屋として動くのは良い。でも、ボスになるのは駄目だ」
「なんでだ? お前に止める権利は無いだろ」
「ッ、確かに権利はない! でも僕は! アンタをそうしないために、サナまで使った! アンタが巻き込まれないようにしたかったから!」
でもこれじゃあ、全部が無に帰す。
どこで選択を間違えた。話がしたい、とクロードから持ちかけられた提案を断ったからか。それとも小さな欲望を混ぜてしまったからか。
いつもは冷静に回る頭が、全く持って役に立たない。
しんと静まり返った部屋に、ダンテ、と彼が名を呼ぶ声が波紋のように広がった。
片手で覆って下げていた顔を、ゆっくりと上げる。こんな時でも、クロードは冷静そのものだった。
「俺を遠ざけることが、俺の為になると本気で思ってるのか?」
「少なくとも、アンタの命は守れる!」
「体はそうかもな。――でも俺の心はどうなる」
強い声だった。同じだけの強さの光を持った瞳が、ダンテをじっと見ていた。
「お前は関係ない、部外者だ、と除け者にされた俺の心はどうなる? お前が他のギャングに狙われて危ない時に、自分だけそれを知らずにのうのうと暮らして、お前が死んだと後で知った俺の心はどうなる?」
「それはっ……!」
ギャングの頭になることを望んだのはダンテ自身で、ボスである過程でどうなろうが、それこそダンテの勝手だ。自分の力不足でクロードを巻き込んで死に追いやる、なんてことはダンテ自身が許せない。クロードが生きてさえいてくれたら、あわよくば、最期にクロードに見送ってもらえるなら、クロードの心を持っていけるなら、それで良いのだ。
言い淀んだダンテに、痺れを切らしたクロードが立ち上がる。
「俺の心が死んでも構わないって?」
胸倉を掴まれた。声は怒気に満ちて、栗色の瞳が鋭く射抜いてくる。左右に僅かに揺れる瞳を見ながら、ダンテはそれでも何も言えなかった。
少しの沈黙のあと、はー、と目の前で溜息を吐いたクロードに、ぱっと胸倉を放された。クロード、と伸ばした手は、彼が一歩引いたことで空を切る。
「お前の気持ちはよく分かった。お前と俺の意見は平行線のままってこともな」
「ッ、クロード! 僕は、」
「お前自身の命を捨てても俺は助けたい、だろ? ――でも、俺はそんな生半可な気持ちでお前の手を取ったわけじゃない」
どういう意味か分からずに困惑するダンテに、クロードはもう一度溜息を吐いてから、変わらない光を帯びた瞳で、ダンテを真っ直ぐに見つめた。
「お前の手を取った時点で、お前に巻き込まれて死ぬのも覚悟してんだよ。お前だけ逃げろ、なんて言われるよりも、一緒に死んでくれ、と言われた方がずっとマシだ」
目を見開いた。
自分だけだと思っていた。巻き込まれて死ぬのは本望だ、なんて自分勝手な想いを抱えているのは自分だけだと思い込んでいた。それほどにクロードに執心しているから。ずっと唯一欲しかったから。
でもクロードは違う。そう思い込んでいた。彼は自分が無理矢理体を暴いて、離れていかないようにしたに過ぎない。手を取ってくれたクロードの気持ちを疑うわけでは勿論ないけれど、相手に向ける想いは、自分の方が重たく煩わしく感じさせるものだ、と今の今まで思っていた。
でも、違ったのだ。
それこそただの勘違いだったのだ。
もうとっくに、クロードはダンテと同じだけの気持ちを持ってくれていたのだ。
「だから、お前が遠ざけた分だけ俺自ら巻き込まれに行くことにした。ボスの座に就くことで、同じ盤上に上がれるようにな。……まあその結果、お前は予想通りキレ散らかしてしてたわけだが。ハッ、いい気味だ」
今クロードの心を逃したら次はない。その想いのまま、クロードの腕を掴む。いつの間にかクロードは下を向いていた。顔を上げて欲しくて、名前を呼ぶ。それでも彼は顔を上げてはくれない。
「ざまあみろ。お前の選択が、俺にこれを選ばせた。てめぇが、遠ざけたかった場所に俺を連れて来たんだ。それが煩わしいなら、今此処で俺を殺せ」
涙なんて一滴も落ちていないのに、その声は泣いているような気がした。どうしてだろう。わからない。クロードすら認知していない無意識なのかもしれない。
でもそれが、ダンテがとった選択と行動に原因がある事はわかる。ダンテが、そうさせた。ダンテが、その選択をクロードにさせてしまった。
腕を引いて力強く抱き締める。クロードは抵抗しなかった。されるがまま、ダンテの肩に顔を預けるだけだった。
「ごめん、クロード。アンタを守ろうとするあまり、アンタの気持ちを蔑ろにした。本当に、ごめん」
誰が守って欲しいと言った、と普段通りのクロードは言う、と普通に考えれば分かるのに。守って欲しければクロードは自分から声を掛けてくる。ダンテに直接じゃなくても、アザミやジオスに連絡を取るだろう。実際、彼は今回の行動をする上でサポーターなる人物に助けを求めている。
助けて欲しい、と言わせる機会すら奪っておいて、クロードを責めるなんてお門違いにも程がある。
それを痛いほど思い知った。
クロードは黙ったままだった。
何も言わずに、ただダンテに抱き締められたまま動かない。
その時間はきっと5分にも満たなかったのに、ダンテには永遠のように感じられた。
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