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31.共にあるということ

 静かに息を吐いたクロードに、胸元を強く押される。  逃げられたくない。  咄嗟に思ったのと同時に、背中に回した腕に更に力が入った。今逃げられたらきっともう何も出来ない気がした。いつだって負ける気などしないのに、ダンテに唯一負けを想像させるのはクロードだけだ。するりするりと躱されて、セフレだった時以上に心の距離が離れるのは絶対に嫌だった。 「――歯ァ、食いしばれ。ダンテ」  物騒な言葉が聞こえて顔を上げた。その瞬間。勢い良く向かってきたのは、形の良いクロードの頭。頭の形綺麗だな、なんて馬鹿げたことが頭をよぎった刹那、激痛が鼻の頭に走った。頭の後ろまで突き抜けた痛み。思わず手を放してその場に蹲って鼻を押さえた。  痛い。鼻が曲がりそうだ。あまりの痛さで声も出ない。痛みで視界がチカチカする。  やっと正常に戻った視界の向こうで、クロードも同じように蹲っていた。彼は鼻の頭ではなく、額を押さえていたのだが。声を出せないのは同じようで、声に成らない息を歯の間から零しているクロードに、なんだか笑えてきた。勿論、鼻と一緒に口元も手のひらで覆い隠してからだけれど。 「なにするんだよ、クロード」 「なにってわかるだろ。両成敗だ」 「なんで両成敗? 僕が悪かったって言ったのに」  全面的に非を認めたのに、なぜクロードまで痛い思いをする必要があるのだろう。  クロードがダンテを殴るのはまだわかる。それが拳だろうが、平手だろうが、弾丸だろうが、なんだって受け入れるつもりだった。それに、拳や平手の方が痛みはマシなはずだ。なのに、あえてクロードは額を使った。のだと思う。  ジロリと栗色の瞳が睨んでくる。 「今回の件は、お前だけに非があるんじゃないからに決まってるだろうが、このアホ。お前はつくづく……、はぁ、もう良い。言うのもめんどくせぇ」  心底面倒くさそうに頭を掻いたクロードは、痛みから回復したらしくゆっくりと立ち上がった。その手首を捕まえて、ダンテは問いかける。 「教えてよ、クロード。アンタの言う通り僕はアホだから、言ってくれなきゃ分からない」  此処で有耶無耶にしてはいけないと思った。  この瞬間を流すのは簡単だろう。面倒だと言われて引き下がればその場は楽かもしれない。でも、きっとこの瞬間を後悔する日が来る。あの時聞いておけばよかった、なんて思いたくはない。  クロードのことなら、なんだって知りたいのだから。    手首を掴んだままクロードを見つめていると、はぁ、と面倒そうな溜息が顔面に落ちてくる。それでも離す気はなかった。もう一度腰を下ろして、真正面から見つめてくるクロードの瞳が、ゆらゆらと水面のように揺れていた。 「いいか。俺は、俺が大好きな男を蔑ろにする奴は嫌いだ」  突然何の話をされたのか分からなくて、うん? と首を傾げる。はぁ、とまたバカデカ溜息を吐かれた。とん、と胸を突いたのは、クロードの人差し指。 「俺が大好きなお前を、お前自身が蔑ろにするなって言ってんだ」  一瞬何を言われたのか分からなくて、頭がフリーズした。  オレガダイスキナオマエヲ、オマエジシンガナイガシロニスルナッテイッテンダ。  おれがだいすきなおまえを、おまえじしんがないがしろにするなっていってんだ。  俺が大好きなお前を、お前自身が蔑ろにするなって言ってんだ。  頭の中で反芻してやっと、意味を理解する。しかし、ダンテの口から漏れた言葉は、え、だった。まさか、そんな言葉をクロードから貰い受けるとは思わなかった。いや、愛されている自覚がないとは言わない。今回の件だって、その前のことだって、クロードが心を傾けてくれている、という片鱗を見ることは何度だってあった。でもいざこうして言葉にされると、戸惑ってしまうこともまた事実。しかも自分を蔑ろにした自覚はあまりない。今回のことだって、純粋に全面的に自分が悪いと思った故の謝罪だった。なのになぜ。  呆れたような顔をしたクロードは、無自覚かよ、と言って脱力するように頭を下げた。  無自覚、と言われても全く心当たりがないダンテには頭に疑問符が浮かぶばかり。  そんなダンテを見かねたのか、クロードが、いいか、と顔を上げた。 「今回のことは、俺もお前も、勝手に行動した。でもそれはお互いを貶めるためか?」 「ちがう」 「そうだよな? 俺もお前も、それぞれ考えがあってのことだ。お前は、俺をお前の命に代えても守りたかった。俺は、お前と同じ盤上で死ぬ覚悟があるってことをお前に示したかった。俺とお前の考えに、相手を蔑ろにしようという明確な悪意があるか?」 「ない、と思う」 「だろ? 俺もお前もある意味正しくて、どちらとも間違いだとは言えない。でも、さっきのお前は、自分だけが悪いと言った。それはお前自身を蔑ろにしてることと同義だろ?」 「そう、なのかもしれない?」  いまいちその基準はダンテにはわかりかねたけれど、やや肯定寄りの返事をしたら、そうだろうが、と即座に断定された。 「別に俺は、お前に非を認めて欲しかったわけじゃない。俺の意見を聞かずに、お前の判断だけで勝手に俺だけを遠ざけるなって釘を刺したかっただけだ。……まあ、お前が無視した意趣返しは少しあったけどな」  ちょっと気まずそうに目を逸らされた。かわいい、なんて場違いなことを思っていたら、逆に手首を引かれて同じように立ち上がる。 「それにお前の場合、謝ったところで次も必要だと思えばまたやるだろ? 次があるんだったら謝罪は要らないし、次にやったら俺はお前の前から消えるって決めてるからな」  さらりと特大の釘を刺されて、ダンテが固まる。その様子にクロードはやっと、いつも通りの笑みを見せて笑った。 「ははっ。なんて顔してんだお前」 「クロードが僕の前から消えるとか言うからだろ」 「次にやったら、って言っただろ」  余程ひどい顔をしていたのか、眉を下げて笑ったクロードに髪をくしゃくしゃに掻き混ぜられる。その体を包み込むように抱き締めた。  でも、と思う。きっとクロードが言ったように、必要だと思ったらまたやる。だってクロードに死んでほしくない。独りで生きていけ、なんて残酷なことは言うつもりはないけれど、できることなら、彼は死なないで欲しいと思う。もしものときも、道連れなんて嫌だ。最期の最期を、クロードには見送ってほしいから。  そっと回ってきた手が、まるで慰めるように背中を撫でてくれる。 「別に、包み隠さず全て言え、とは言わねぇよ。ギャングの頭が、そんなペラッペラな口軽だったら信用問題になるしな。言えないなら、言えない、って言ってくれれば良いから、連絡と返信くらいはしろ。理解ったか?」 「…………………………、善処する」 「ふはっ! ちっせえ声!」  渋々頷いたダンテに、クロードはからからと笑った。  ぎゅう、と決して大きいとは言えない体を抱き締める。  クロードのほうが早くにこの世界に飛び込んだからだろうが、ずっと彼のほうが一枚上手な気がする。どんなことも先回りされて、何処まで言っても隣に並べている気がしない。ダンテの心はまるでクロードの手のひらの上だ。何をやっても先回りされる。  はぁ、と大きな溜息を吐いて、彼が逃げないよう体を預けるようにして抱き竦める。おい、と笑った声が聞こえる。 「もう僕、アンタから離れられる気がしないよ」  捕まえたと思ってもするりと抜けられて、逃げられてしまうんじゃないかという不安がずっと消えない。遠ざけておいてどの口が言うんだ、と言われてもおかしくないことを言ったのに、腕の中のクロードは、小さく笑って言った。 「いいこと教えてやろうか、ダンテ」 「? なあに?」  覗き込むようにして見た顔。ふふん、と得意げな笑みを浮かべたクロードと目が合った。とろりと目元を緩ませたクロードに、素直な心臓が大きく揺れる。少し見つめ合ってから、そっと耳元に寄ってきたクロードの唇に全神経を集中させた。 「俺はもう、お前なしじゃダメになってるよ」  甘いお菓子のようでいて、毒のように鼓膜を揺さぶった彼の声に、何も言えなくなったのはダンテの方だった。  己自身でも解読不明な言葉にもならない呻き声を、クロードの肩口に吐き出し続けるダンテに、クロードは軽快な笑い声を上げたのだった。  その笑い声は、夜に沈んだ窓の外なんて知らんぷりで、暫く大きな部屋に響き渡っていた。  *** 「クロードさん」  陽の光が満ちる庭園で、家族との再会を果たしているファヴェーロの構成員たちの背中を見ていたら、ふいに背中に掛かった声。ゆっくりと振り返ると、可愛らしい笑みを零すイザベラを背中に隠すように、ぶすりと愛想のない顔をしたイザベラの影武者――サナが立っていた。声を掛けてきたのは、間違いなくサナだろう。明らかに不機嫌そうな声をしていた。 「お元気そうでなによりです。サナ嬢、イザベラ嬢」  恭しく会釈すれば、ふん、とサナに鼻を鳴らされた。その様子を心配そうに見守るイザベラと、サナは本当に瓜二つだ。彼女たちを見分けるには、その明らかな態度の差がないと、少々手こずるのだろうな、と簡単に予想がつく。おそろいのカジュアルワンピースを着ていると尚更だ。 「クロードさん、本当に何から何までありがとうございました」  頭を下げたのはイザベラだ。  あの夜が明けた次の日、すぐにダンテにサナを連れてきてもらったのは正解だった。  イザベラが最も信頼しているのは、間違いなくサナだ。父親と同じ男であるクロードといるよりも遥かに、心身ともに休まったのだろう。あれから一週間が経とうとしているが、イザベラは前よりもずっと健康そうに見える。  容赦なくアルマンの首を掻き切ったクロードを見た時、イザベラは少なからず怯えていた。地獄の主とも呼べる父親を殺したクロードが、父親と同じケダモノでない保証はなかったのも一因だろう。アーノルドの説明がなければ、今のように笑みを向けてくれることもなかったかもしれない。  初日こそ怯えていたイザベラも、聡明だったおかげもあって、すぐにクロードとは打ち解けてくれた。別室で寝る際は必ず鍵を内側から掛けて、と助言したのも良かったのかもしれない。だんだんと自分のことを話してくれるようになったイザベラから、サナのことも聞いた。アルマンの妾の子であるサナとの関係も、彼女にとってどれだけサナが心の支えだったかも、全てイザベラ自身から聞いて知っている。 ――彼女が起こす行動全てが私に力を与えてくれるんです。彼女がたとえ何をしようと、それは私のためだと、確信を持って言えます。  そういったイザベラの瞳の中には、長年虐げられてきたとは思えないほど、強い光が宿っていた。  実はほんの少しだけ、サナに意趣返しをするつもりだったのだが、このイザベラの言葉で止めたのは、クロードだけの秘密だ。  サナは、イザベラを自由にすること、という条件の下、ダンテと一芝居打ったのだ。だとしたなら、サナに意趣返しをするのはお門違いである。  自由に、という言葉通り、彼女たちの足元には二つのこぶりなキャリーケースが置かれている。  これからはイザベラもサナも、ファヴェーロの名を捨てて、生きていく。  名前も出自も捨てて、新しい自分を、この街ではない場所で生きていくのだ。もしかしたら顔もこれから変えるのかもしれない。とにかくもう二度と、この街にも裏社会にも、戻ることはないのだろう。  彼女たちが望んだことだ。だから、クロードもできる限りのことはしたつもりだ。 「どういたしまして。といっても、俺が出来たのは口添えくらいですが」 「その口添えがこの世界でどれほど重要なのか理解らないほど、イザベラは疎くないわ」  言葉を返してきたのはサナだ。イザベラとは違い、あまりサナとの相性は良くないらしい。元々こういう気質なのか、はたまたクロードが気に食わないのかは定かではない。  肩を竦めて、勿論知っていますよ、と言えば、僅かに眉間にシワを寄せている。 「貴女達の旅路が幸多きものであることをこの地から祈ってます」 「ありがとうございます、クロードさん」  イザベラは満面の笑みとともに、頭を下げた。そして誰かを見つけたらしく、失礼します、といって何処かに駆けていく。その先には、ルカとアーノルドの姿がある。談笑を始めた三人に頬を緩ませていると、サナが隣に立ったのが目の端に見えた。 「大したものね。流石あの男と恋人なだけあるわ。まさかアルマンの首まで貴方が取ってしまうなんて」 「たまたま運が良かっただけですよ。ルカも手を貸してくれましたしね」  ルカが手配してくれた傭兵軍団が殆どやってくれたも同然だ。ある程度の殺しのスキルはあっても、ルカがいなければ、アルマンの首を取ることはおろか、屋敷に入ることも出来なかったのだから。  ちらりと彼女を伺えば、清々しいほど美しい笑みを浮かべている。その視線の先にいるのは勿論、イザベラだ。機会があったら、と思っていたことを舌に乗せて、口を開いた。 「サナ嬢、一つ聞いても?」 「なに?」 「貴女の俺に対する態度は、何処から何処までが演技だったんです?」    亜麻色の瞳が、ゆっくりとクロードに向いた。 「クロードさん、私はね」  彼女の唇に乗るのは、あの日のような真っ赤なルージュではない。あの日よりもずっと柔らかなコーラルピンクの唇が、笑みを象る。 「あの子のためなら、どんな悪女にもなれるのよ。誰かを傷付けることも、殺すことも、なんだって厭わない。それがあの子の為になるのだったら、なんだって」  あまりにも美しい笑みだった。  つまり彼女のあの全ての行動は演技ということだ。相手が嫌がるであろう悪女を演じていたということだ。その結果自分が殺されるかもしれなくても、イザベラの為になるのだったら、なんだってするのだろう。自分がよく知っている男に似ていて笑ってしまった。 「貴女の事が少し理解った気がします」 「あら。会話もろくにしていないのに?」 「貴女に良く似た男を知っているので」  くすりと彼女は笑った。心当たりがある証拠だ。 「でも一つだけアドバイスを」 「ふふ、どうぞ?」 「彼女はきっと、貴女と共に在ることを望んでいる。だから、もしも死を選んだとしても、彼女の手を離すなんて真似、しないでくださいね」 「……それは、忠告かしら」 「いいえ。俺の体験談ですよ」 「それは参考にしない手はないわね」  穏やかな笑い声が聞こえる。二人分の髪を揺らす風は、どこまでも柔らかい。  終わってみれば大したことのない結末ではあった。でも結局のところ、あの憎たらしくて愛おしい男の思い通りになった、のだろう。  ファヴェーロ一家は、実質ダンテの傘下に入った。一応ボスとして名前を貸してはいるし、会合にも参加はするが、ギャングのことはクロードはてんで素人だ。役に立てることは少ない。双方の合意の下、アーノルドを始めとする粛清されなかったファヴェーロの構成員たちは、ダンテ率いるルーポに席を置くことがすでに決まっている。  そんなことを考えていると、突如後ろから伸し掛かられて、呻く。  ふわりと鼻をくすぐる香水の匂いで、すぐに犯人に合点がいく。 「……ダンテ、おもいんだが」 「クロードが僕を放って、サナと話してるからだろ」 「あらあら、お熱いわねぇ」  他人事のように言ったサナが、不意に顔を寄せてくる。口元がダンテから見えないように手で覆って、そっと囁いてきた。 「貴方も苦労するわね、クロード・シャルルさん。男の嫉妬は、女のそれよりもずっと強烈よ。お気をつけになって」  目を合わせると亜麻色が愉しそうに笑んだ。のと同時に、頬に湿っぽいものが押し付けられた。  驚いて固まるクロードに、サナが声を上げて笑って、二人分の荷物を両手にイザベラたちへと走っていく。 「ごきげんよう! 二度と逢わないことを祈ってるわ!」   取り残されてしまったクロードが、やられた、と思う数秒前であり、ダンテの怒気と殺気に背中を刺される十数秒前のことであった。

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