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37.望まぬ接触
目的のラウンジは、スウィートルームより三階下がった階にある。
最速で来たエレベーターに乗ってラウンジに辿り着いたダンテは、声を掛けようしたスタッフを片手で制しながら、すぐさま中に入った。
やわらかなピアノの音色が響いている。
思い思いに談笑する人々を横目に、足を動かしながらラウンジ内に目を走らせた。ふと目の端に見えた栗色。そちらに目をやれば、やはりクロードが居た。窓際の席でこちらに背を向けた恰幅の良い男――アーノルドと談笑している。
大股で歩いて近付いていく。
クロードが不意に顔を上げた。ダンテに気付いたらしい。目を丸くして固まっている。
そんなクロードの様子に、少しだけ気分が晴れる。だとしても、いつまでも此処にクロードが居ては、|あの男《アンリ》が来てしまうかもしれない。焦燥感をおくびにも出さずに、傍まで辿り着くと、クロードの二の腕を掴んだ。
アーノルドに顔を向ければ、彼もまた驚いたような顔をしている。
「お、おい。どうしたんだよ、お前。何かあったのか?」
クロードの言葉を無視して、立ち上がらせる。荷物をほぼ持ってきてないのは知っているから、帰り支度は必要ない。二の腕から手首へ、掴む場所を変えてからアーノルドに向き直った。
「この埋め合わせはまたする。代金はオレに付けておいていい」
返事を待たずに、クロードの手を引く。オイッ、と咎める声が聞こえても足は止まらなかった。クロードが此処にいることを、あの男に絶対に知られたくない。何としてでも二人が接触することを避けたい一心で、足を動かす。
「ダンテッ! 聞いてんのか!」
ドン、と肩を殴られる。肩越しに見たクロードは予想通り、怒りを露わにしている。彼の怒りも尤もだ。でも、今は。
「事情は後で説明する。今は言う事聞いて」
余裕のない声が出ても気にしていられなかった。幸いだったのは、それを聞いたクロードが溜息を吐きながらも、歩調を合わせてくれたことだ。
ラウンジからは無事に出られた。あとはこのまま従業員用のエレベーターに乗って、ホテルを出ればアンリに会わなくて済む。
そう胸の内で安堵した刹那。
「クロード!」
耳障りな大きな声がその場に響いた。
思わず足を止めてしまったのが、失敗だった。え、とクロードが言ったのと、カツカツと革靴の踵が大理石を駆ける音が耳を通り過ぎる。呆けてる場合じゃない。その思いに突き動かされて、一拍遅れてクロードを背に庇った。
見えたのは、数分前にスウィートルームで対面したアンリ・リヴィエールだ。息を切らしてダンテたちのところまで駆け寄って来た彼を、じろりと睨み付ける。ほぼ変わらない高さの目線。しかし、アンリにとってはダンテなど眼中にないようだった。
「会いたかった、クロード。随分探したんだ」
「えっ、は? なんで兄さんが此処にいるんだ?」
背中に庇っていたはずのクロードが、身を乗り出してそう言った。
頭の中でクロードの言葉を噛み砕く。今、クロードはアンリ・リヴィエールのことを『兄さん』と言っただろうか。否、と思う。『兄さん』と呼んだとしても、血縁関係とは限らない。苛立ちに任せて、ぐいりとクロードの手首を引く。
「行こう、クロード」
「えっ、おい、ダンテっ」
強く強く手首を引きながら足を動かす。
話をさせてたまるか。これ以上コイツを視界に入れていたら、首を絞め殺してしまう気がする。粘ついたタールみたいな言いようのない感情が、胸の内に貼り付いている。抵抗されることも覚悟していたのに、クロードは案外あっさりとダンテについてきてくれた。
「ごめん、兄さん! また、」
「明日、ここのラウンジで待ってる! お前が来るまでずっと!」
クロードの声を遮ってまで背中を追いかけてきた声を、意識から遮断する。
黙れ、と言ってやりたかった。そもそも明日の予定を聞きもせずに一方的に要求するなんてどうかしている。仮に兄だったとしても、そんな横暴が赦されていい筈がない。大体クロードは忙しい身だ。突然現れたやつに構っている暇なんてないし、突発的な予定を入れられるわけがない。馬鹿なのかあの男は。
まとまらない思考。止まらない罵詈雑言。
こんなに苛ついたのは、久しぶりだ。クロードがこの手を振り切っていたら、きっともっと酷いことになっていた。
どうやって辿り着いたのかもわからない、運転手付きの黒塗りの私用車に二人で乗り込んで、勢いよく扉を閉めた。
コンコンと運転席側のスモークガラスを叩けば、私用車が緩やかに走り始める。
そこでやっとダンテは、息を吐き出すことが出来た。
ちらりと隣を見遣る。クロードは別段動揺した様子も怒りをぶつけてくる素振りもないが、しばらくホテルの出入口へと目を向けていた。
こっちをみてよ。
そんな子どもじみた感情。突き動かされるように、クロードの肩を掴んで抱き寄せた。うおっ、と間の抜けた声がする。その声にも動揺は感じられなかった。動揺しているのは、もしかしたらダンテの方かもしれなかった。
――僕と君。果たしてクロードはどちらを選ぶかな。
その言葉が耳の奥に張り付いて消えない。
不安を拭いたくて、その華奢な体を抱き絞める。
「――アイツ、誰」
抱き締めた肩が跳ねることはない。それどころか、柔らかな息を零す音が聞こえた。そんなクロードのお陰で、少しずつ暴力的なまでの感情が遠のいていく気がした。
「俺が言わなくてもお前ならもう調べてそうだけどな」
「茶化さないで」
ぴしゃりと言ったのに、クロードには少しも効果がないらしかった。自分ばかりが心乱されているのが気に喰わなくて、はやく、と答えを強請るように首筋に舌を這わせた。
「っ、お前が思うような人じゃない。…ッ、ただの兄貴だって」
あわく噛み付けば、呆れたように言われる。
ただの兄貴。兄弟がいないダンテにとって、その感覚は未知の物だ。仮に兄弟だったとして、アンリのクロードへの執着は、普通のそれとは少し違うようにダンテの目には映ったから、余計に。
「ああ、いや。ただの、ってのは違うか」
ぽつりとクロードは言った。首筋から顔を上げて、至近距離でクロードの瞳を覗き込む。視線の合わない瞳には、揶揄うような光はない。どちらかと言えば、クロード自身への嘲笑を含んでいるように見えた。
「俺と違って、出来の良い兄貴だよ。今は家業を継いでるって母さんから聞いてたから、こんなとこにいると思わなかった。一体何の用なんだか」
でも元気そうだったのはよかったな。
そう言ったクロードの声が、少しだけ沈んで聞こえたのは、気のせいだろうか。クロード、と名前を呼ぶ前に、下がっていた視線がダンテを捉える。
笑んだ瞳に囚われたと思ったら、唇に温もりが押し当てられた。すぐ離れた熱。至近距離で、クロードが笑った。
「もしかしてお前、兄貴に妬いたのか? ははっ、ホントかわいいやつ、ッん」
減らず口に噛み付いて、言葉を封じる。少し開いた唇の隙間から舌を差し込んで、歯茎を擽った。ふっ、と息を零すように笑ったクロードが、応えるように舌先を絡ませてきた。
じわりと、脳が痺れる感覚。湧いた熱が下腹部に集中していくのがわかる。
ああもう。悔しいくらい僕を扱うのが上手いな。
そんなことを頭の片隅で考えながら、さらに深く絡ませて吸い上げる。一旦解放するように口を離したら、いたずらな舌に唇を舐められた。
ふふん、と得意げに笑うクロードと目が合う。
本当に狡いな、この人。
そう思ったのと同時。身を乗り出すように、耳元に寄せられた唇。
「はやくお前にぐちゃぐちゃにされたい」
毒を仕込むように鼓膜を撫でた艶めいた声。
脳が揺さぶられたような気がした。は、っと漏れた息をそのままに、伸ばした手できちりと着こまれたスラックスに手を這わせる。指先がたどり着いたのは、言わずもがな、今は布に隠された、いつだってダンテを受け入れてくれる場所。
とん、と指で淡く叩けば、目の前の肩が小さく跳ねた。仕返しをするように囁く。
「いくらでもしてあげる。あんたがもういいってへばってもやめてあげないから覚悟して」
くすくすと笑うクロードを見ながら、ダンテの頭の片隅は、徐々に冷静さを取り戻していた。
クロードが何かを隠しているとは思っていない。だが、明確に話題を逸らされた。それが分からないほど、彼との関係は浅くない。それに、と思う。アンリはあの場で待っていると言った。
憶測の域を出ないが、クロードはきっと明日行くだろう。
クロードはそうは思っていないようだが、アンリはクロードに執着しているように見えた。とびきりの執着を向けている己と同じものを感じた、というだけで確信はないのだが。
一体何の話をするというのだろう。もしかすると、アンリはクロードを実家に引き戻そうとしているのかもしれない。だとしたら、勝手なことを許せるはずがない。
アイツなんかに、絶対にクロードを渡さない。
静かな、しかし鮮烈な想いがダンテの胸の中で燃えていた。
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