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40.今に至る傷痕

 ちゃぽん、と天井から落ちてきた雫が湯船に波紋を作る。  それを見ていたら、クロードの手の甲に掻き消された。視線を上げた先。向かい側でバスタブの縁に背を預けたクロードと目が合う。  栗色の瞳は柔らかく笑んでいて、車内で見た仄暗さは遠い。静かに息を吐いてから口を開こうとしたダンテを止めたのは、クロードだった。 「どっから話すかなぁ」  のんびりとした声が浴室の湯気に溶けていく。水面にすべらせている手に視線を向けているクロードの表情を、少しも見落とさない。そんな思いとともに、ダンテはじっと見つめて言葉の続きを待つ。あ、と気付いたようにクロードが視線を上げた。 「言っとくけど、兄さんとは血が繋がった兄弟だからな。恋人とかでは断じてないから。殺すとか絶対言うなよ」  ビシッと人差し指を向けられる。にんまりと笑って、頬杖をついたまま言った。 「それはクロードの話次第」  一応言っておくが、今のところ殺すつもりはない。ただ、クロードの話を聞いて必要と判断したら殺る。  ダンテにとって、クロード以上に大事なものなどない。  クロードがこれから生きていく中で、アンリ・リヴィエールという存在が障害となり得るなら、容赦なく排除する。それが血縁だろうが関係ない。所詮、血が繋がっているだけの赤の他人だ。人生を蝕まれる謂れはない。だからこそ必要ならば、殺すことも厭わない。  はぁ、とため息を吐いたクロードは笑った。 「まあお前はそういうだろうとは思ったけどさ。ホントにお前が思うようなことじゃないぞ。取るに足らない、くだらない話だよ」 「少なくとも僕にとっては、クロードの話でくだらないものなんてない」  他人にとってはどうでもよくても、ダンテにとっては特別だ。  そうダンテが言うことも予想していたのか、クロードは、もうそれでいいよ、と小さく笑ってから語りだした。 「アンリ兄さんは、俺にとって存在自体がコンプレックスの塊みたいなものでさ。兄さんは本当に何でも、求められる以上のことが出来る人だった。そんな非の打ち所がない兄がいたもんだから、俺の父は後継を兄さんに任せて、次の子どもは溺愛出来る娘が欲しかったんだ。でも生まれたのは、俺だっただろ? だから父にとって俺は、言ってしまえば最初っから期待外れの存在だったわけ」  軽い口調でクロードは言った。時折水面を指先で掻き混ぜて、波紋を見つめて。過去に意識をやりながら。 「まあでも子どもの俺は、父にとって無意味な存在だって知ってても、やっぱり父さんに認めてもらいたかった。お前が生まれてよかった、って言ってほしかった。……ははっ、我ながら健気だよな。だから出来ることは全部挑戦した。でも結局、変わんなかった。なんにも」  ぱしゃっと水面を弾いた手。突如起きた波のせいで、ぐちゃぐちゃになっていく波紋。いくつも折り重なって、さらに形を崩していく。 「兄さんに全部向けられる父さんの目が、ずっと羨ましかった。さすが俺の息子だ、って兄さんが言われてるのを聞くたびに、ガキのくせに一丁前に嫉妬した。俺も褒めてほしくてがむしゃらに頑張るけど、無駄なんだ。いつだって父さんが俺を見る目は、無関心で冷たかった。すべてが無意味そのものだった。――もしかしたら息子とすら思ってなかったかもな」  自嘲したクロードの手が、不意にダンテの指先をやわく掴んだ。その弱々しさに、一抹の不安が過って、指先を絡ませて強く繋ぐ。そんなことはありえないのに、このまま漂う湯気のようにクロードが消えてしまいそうな気がしたから。  ぱちりと目を瞬いたクロードと目が合う。ふっと色んなものを吐き出すように笑ったクロードは、また口を動かし始めた。 「すべてが嫌になった俺は、家を飛び出した。俺を必要とする人間は別にいるはずだって、強く思い込んでこの世界に入ってきたってわけさ。……つまりだ。アンリ兄さんは俺にとって、自分の弱さと苦い過去の象徴で、ずっと目を背けていたい存在ってこと。そんな存在が目の前に現れてみろ、誰だって動揺するだろ?」  同意を求めるようにそう言ったクロードの指先の震えを、ダンテは見逃さなかった。  強く握りしめた手を静かに引く。案外すんなりとクロードの体は動いた。後ろから抱き締められるように誘導すれば、素直に胸の中にすっぽりと収まってくれた。腰に腕を回して隙間のないように、クロードの体を抱き込む。くすくすと可笑しそうに笑ったクロードは、後ろ手に髪を撫でてくれた。 「兄さんとは一切連絡取ってなかったし、一生会うこともないと思ってたからさ、完全に安心しきって油断してたわけ。なのに急に現れるんだもんなぁ」  クロードはなんてことのないように話したが、ダンテにとっては大切な人を蔑ろにされたのと同義の内容だった。クロードが許しても、許せるはずなんてない。 「……まだその父親生きてるの」 「さあ? 知らねぇ。母さんは何も言ってなかったけど」 「ふうん」 「待て、早まるなよダンテ」  アンリはまあ生かしておいてやるとして、クロードの父親は胸ぐらを掴んで病院送りになるくらいボコボコにしてやりたい。そう思うくらいには、憎さが募っている。それを見透かしたらしいクロードが、首だけで振り返って言った。視線から逃げるように、眼の前の肩に額をグリグリと押し付ける。 「アンタが止めなきゃ顔の原型なくなるまでボコボコにしたのに」 「やめとけって。余計な騒ぎ起こしてお前がブタ箱にぶち込まれたらどうする」 「別に構わないけどね」 「俺が構うんだよ。万が一ぶち込まれたら、出所まで待っててやんねーからな」  不穏な発言に、勢いよく顔を上げて顔を覗き込む。 「は? 僕置いてどこ行く気?」 「どこにも行かれたくなかったら、警察がちゃんと機能してる地域のカタギには極力手を出すな。わかったか?」  むっと顔をしかめれば、鼻を摘まれた。  こんなことをされたら、ダンテの選択肢は一つだけだ。渋々頷けば、ヨシ、と満足気に頷かれた。  また静寂が満ちた浴室の中で考える。  もしもその過去がクロードになければ、今、こうして二人で浴槽で過ごすこともなかったのかもしれない。クロードがこの世界に飛び込んでくれたお陰で、ダンテはあのクソみたいな鳥籠から生きて出る事ができた。でなければ、クソ野郎に買われて死んでいた可能性だってある。そう考えると、クロードの父親に感謝すべきなのかもしれない。 「……複雑だ」  ぽつりと口からこぼれた独り言。なにが、と間延びした声が返ってきて初めて、口から漏れていたのだと気付いた。 「僕はクロードの父親にほんの少しは感謝するべきなのかもって一瞬でも思ったことが」 「? どういう意味だよ」 「アンタをクソみたいな扱いしたことはすごくムカつくけど、そうじゃなければクロードはコッチ側に来てくれなかったわけだろ? つまりアンタの父親がクズだったから、僕はアンタに会えたし、今クロードが僕の大切な人になってるってことになる。だからだよ」  クロードと出会えたことは、ダンテにとって転機であり運命に違いなかった。  あの瞬間にクロードが来てくれたおかげで、ダンテは犬死しなくて済んだ。逆に言えば、あのタイミングで出会わなければ、クロードを探してギャングの頭目になることもなかった。何かのタイミングが少しでもズレていたら、あの邂逅は起き得なかった。  色んなものが折り重なって、連なって、今ここにいる。  それを今、妙に実感した。  クロードを裏社会に飛び込ませるきっかけを作ったのは、クロードの父親だ。だとしても許す気はないが。もしも連れ戻そうとしてるのだとしたら、絶対に阻止する。クロードには悪いが、消えてもらうことも辞さない。口には出さないが。  ふいに笑い声がその場に響いて、ごちゃごちゃと考えていた思考を止める。眼下の肩の震えは止まらない。むっと口を尖らせて、出来る限り深く顔を覗き込む。   「何笑ってるんだよ」 「ははっ、いや、あははっ、ふふ、悪い。俺もよくわかんねーけど、なんかおかしくて」  笑う要素なんてないのにな。  クロードの声は軽い。なのに目を見開いてしまったのは、明らかに汗ではない雫が、眦から溢れていたから。大丈夫、と聞くのも憚られた。  どうして良いのかわからずに、そっとその雫を指先で拭う。  こんな時クロードならきっと、なんと声を掛ければ良いのかすぐ分かるのだろう。アンリが言った通り、察しが良くて人の感情に敏感だから。対して自分は、気の利いた言葉ひとつ掛けてあげられない。情けなさが胸に募る。それでも何もしないのは嫌で、その華奢な身体を抱きしめる。  この時ほどクロードが小さく見えた事はなかった。  いつだって飄々として、全てのことを猫の様にするりと躱して、卓越した思考と冷静な判断力で、逞しくこの世界を渡る。してやられた、と思う事も多いし、それだけ美しく痺れる様なカッコ良さを常に持っている人だ。か弱さ、なんて言葉を、クロードに一度たりとも感じたことはなかった。  でも今は、今だけはそれを感じた。  守ってやるほど弱くないことを知っている。それでも支えてやりたいし、頼って欲しい。見せるなら自分だけにして欲しい。己の強欲さに呆れつつ、大事なひとの名前を呼んだ。 「ねえ、クロード」  ん、と言った声に滲みはない。安堵しつつ、本当は聞きたくないことを口に出す。 「家に帰りたい?」  ぎゅう、と抱き締める力が強くなってしまったのは許して欲しい。  アンリは言っていた。僕と君、クロードはどちらを選ぶかな、と。もしも帰ってきて欲しい、と言われたらクロードはどうするのだろう。家族というものの良し悪しがダンテにはわからない。生みの親には何の感情も抱いていないし、家族と呼べるのはせいぜいアザミくらいだ。  クソの極みと言える父でも、クロードにとってはそうではないのかもしれない。クロードの意思は、尊重するべきだとは思っている。無論、出来るかどうかは別として。  小さく笑ったクロードは、首を横に振った。 「今更だろ。それに俺が帰ってお前は大丈夫なのか?」 「大丈夫ではないけどさ。でもクロードがそうしたいなら我慢出来るよ。最後に帰ってきてくれるのが僕の所なら良い」  どこに行っても最後に傍に戻ってきてくれるなら、良い。それくらいの覚悟は持っている。それに我慢出来なくなったら、自分から会いに行けば良いのだから。  少しの沈黙の後、ぽつりとクロードが言った。 「――もし、俺が帰ってこなかったら?」  声は不安げに揺れていた。そんなクロードに掛ける言葉は、決まっている。 「迎えに行くよ。たとえ地獄の果てだとしてもね」  逃すつもりなんてない。クロードの意思ではなく、帰れない状況を作られたのだったら尚更。クロードが手を取ってくれた時から、誰にも渡さないと決めているのだから。  クロードは笑ってくれた。約束は守れよな、と言って。その声が嬉しそうに聞こえたのが嬉しくて、大好きでたまらない人を一層強く抱き締める。  いつだったか、お前は一生俺を追いかけててよ、とクロードが言った意味が少しだけ分かった気がした。    

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