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鹿野の憂鬱
夕陽が部屋へ戻っていった後の医務室に、珍しい客人が来た。アリマは彼のためにドリップコーヒーを淹れてやった。
ちらりと様子を覗き見ると、机に突っ伏してうなだれている。長い付き合いになるが、ここまで落ちている彼を初めて見たかもしれない。
「俺のこと忘れてたんだけどー」
「解離性健忘……ちょっとね、脳が混乱してるんだって。ちゃんと記憶を引き継げている日もあるんだよ?ま、気長に待ってあげようね」
ナンバー4が治療に携わるようになったころ、今でいうケアテイカーの役割を鹿野が担っていた。その頃は『天使い』と呼んでいて、直接的で胡散臭い名前であった。初めての試みだったため、彼らの一部始終は複数の監視カメラにより筒抜けで、情報収集が行われていた。もちろん、当事者たちには秘密裏に設置された隠しカメラだ。「なんとも非人道的だ」と思いながらも、アリマも研究者の端くれだったため、その恩恵を受けようと黙認した。もし鹿野が知ったら自慢の筋肉を惜しむことなく使って大暴れし、施設が消えてなくなりかねないと、顔を合わせるたびにハラハラしたことを思い出す。
約1年間、ゴッドブレスと天使いという関係を続けたナンバー4と鹿野だったが、その間に性的な接触は一切なかった。結果、上層部が望むようなデータは得られず、研究対象としては役に立たなかった。
ただ、穏やかに、唯一無二の友人といった風に過ごしたこの時間は、外の世界を知らないナンバー4にとっては特に、何物にも代えがたい時間になっていたことをアリマは知っている。
「ポジティブおばけのバンビでも、今回のはダメージ大かな!」
「ポジティブおばけじゃありません。繊細な成人男性ですぅ。あと、バンビって言うなー」
カップを近くに置いてやると「あざます」と言いながら早速飲んでいた。
「はー……思ったよりきついわ」
鹿野が独り言のようにぼそりとつぶやいた。アリマは、鹿野がこの施設で働き始めたころから知っているが、結構な無理難題を押し付けられても、なんでも器用にこなす男だった。その実績から、こう見えて、というと失礼かもしれないが、上からの信頼も厚い。
そんな鹿野が弱音を吐くなんて本当にきついんだなと、彼の心中を察した。
「絶対に、とは言えないけど、精神的に安定してきたらきっと、記憶も安定するよ。カウンセリングも受けてるし」
鹿野が「それって何年かかるのー」と、再び机に突っ伏してうなだれる。
「なんかいい方法ないの?先生様」
本当に、藁にも縋る思いで何か解決策を探し出そうとしている鹿野が、不憫でならない。
「これはあくまで私の仮説なんだけど」
「でた!その言い回し。でもなー、前回当たってたんだよなー、先生のとんでも理論」
アリマが、自分の考えた仮説について、誰に聞かれているでもないのに鹿野に耳打ちをする。それを聞いた途端、鹿野が明らかに動揺した。普段、冷静沈着でいつでも安定しているこの男に、こんな顔をさせることができたアリマは「してやったり」と気分が高揚した。
「ホントにとんでも理論じゃん……先生もしかしてあの時、俺らの事盗撮してた?」
その高揚した気分は一瞬で地に落ちた。
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