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兄弟
その日の朝食は、味がしなかった。
鹿野が持ってきた患者のカルテをゴウが難しい顔で睨んでいる。いつも以上に時間をかけて、解決の糸口を探っているようだ。
「……今日のは、厄介だな。身内を傷つけた患者は、煙の形が複雑なんだ」
「そう、なんですね」
夕陽はいつも以上に時間をかけて、タオルをたたむ。
「あ、そろそろ鹿野が迎えに来る。用意しよう」
「……はい」
ゴウは、かなり的確にゴッドブレスをコントロール出来るようになっていた。以前みたいに感情に依存した治療をする事はないし、自分の裁量で手を抜いたり逆に強めすぎたりする事もない。
ゴウが治療した患者は、晴れやかな顔をして次のステージへ進んでいく。まるで、生まれ変わったように。
「……」
夕陽は、ゴウの部屋にとどまる。一歩が踏み出せずにいた。そんな夕陽をゴウが、背後から抱きしめる。
「どうしたの?まだ不安?」
「……うん」
ゴウはもう、自分の不安定さを性欲で誤魔化すことはしなくなった。しかし、コントロール出来るといっても、やはり重症者の治療の後は、かなり衰弱する。それを夕陽が不安に思い、今まで通りのコントロールの仕方、性の解放を提案したが「大事にしたい」と断られていた。
「大丈夫だよ。夕陽が居るだけで俺、すごい安定する」
首筋に、キスを落とす。激しく互いを求めあったあの日以来、キスより先の事はしない。ゴウは自分に「自立して、告白してから」と、中学生みたいな戒めを課していた。
「……ああ、ダメ。止まんなくなっちゃう。もう行こう」
ゴウにとって良いタイミングで、鹿野が迎えに来る。ゴウは急いで夕陽から離れ、玄関へ向かった。夕陽は秘密を隠して、ゴウの後に続いた。
鉄格子の部屋。その中央に、車椅子に縛り付けられた患者が、人為的に作られたかすんだ意
識の中で、その時を待つ。もう、見慣れた光景だ。
それなのに、震えが止まらない。
鹿野が夕陽に、三つ折りの紙を手渡す。いつものように、この男の罪状を読まなければ。
「……夕陽?」
なかなか読もうとしない夕陽に、鹿野が怪訝そうな顔をする。夕陽は深呼吸をして、ようやく読み始めた。
「無垢な自由を奪い去る者。甚振りし肢体の……その傷は……」
言葉に、詰まる。喉を締め付けられているようだ。
「夕陽、どうした。代わろうか?」
あきらかに様子がおかしい夕陽を鹿野が気遣う。夕陽は首を横に振って鹿野の申し出を断った。
「その傷は、癒えども……呪縛からは……」
「おいおい、聞き覚えのある声だな」
声がした、車椅子の方を見る。患者の男がゴウの合図を待たず、自力で覚醒していた。
「お前ぇ、母さんはどうした。見捨てたのか?」
「おい、治療中だぞ。黙らせろ」
鹿野が鋭い声で、患者を連れてきた作業服の同僚を咎める。想定外の事に慌てているようで、急いで他のスタッフを呼んだ。
「……夕陽?」
目の前の患者と顔見知りである様子の夕陽に、ゴウが問いかける。夕陽は、下を向いたままぽつりぽつりと言葉をこぼし始めた。
「母さんは……お前のせいで……心が死んだ」
「俺のせい?お前が守りきれなかったんだろうが、人のせいにするな。はっ、いいよなお前は。そうやって何でも俺に押し付けて」
「お前が、家族をめちゃくちゃに、したんだ」
夕陽が男を睨もうとした。だが、恐怖が邪魔をして、どうしても直視できない。
「は?何言ってやがる。先に俺をズタズタにしたのはお前らだろう!バカにしたような目で見やがって……俺が父さんと同じ、だ?お前は痛がって悦ぶだけの変態のくせによ!お前らのために俺がどれだけ、どれだけどれだけどれだけ!!」
「……さい……うる、さい……うるさいうるさい!」
夕陽が、男に襲いかかる。隠していたペーパーナイフを握りしめ、男の太ももめがけて振り下ろした。
鮮血が、ナイフから滴る。
「あ……」
「夕陽。大丈夫、大丈夫……」
ゴウが、夕陽を抱き止める。夕陽は自分の手に、生温かいどろりとした感触を確認した。それは、ゴウの腕から流れ出ている。
「あ……ああっ……あああああ!」
夕陽が奇声を発しながら、ゴウの腕の中で暴れる。「大丈夫、大丈夫だよ」と、ゴウは夕陽を傷つけないように注意しながら抑え込む。夕陽の体から力が抜け、そのまま倒れ込んだ。
消毒用のアルコールの匂いがする。夕陽は、施設に連れてこられた時の、最初の部屋に居た。
ベッドの上で寝かされ、両手には手錠がかけられていた。
「よう、目ぇ覚めた?」
鹿野が、すぐ横に立っている気配がした。
「鹿野さん。俺、どうなるんですか?」
「まぁ、罪を問うとか、そんなのはしないだろうな。本人も望まないだろうし。お偉いさんも、調べられたら面倒だしね」
「はは……傷害罪見て見ぬふりとか、相当ヤバい組織ですね」
夕陽が、身体を強引に起こす。まだ、施された薬が抜けていないのか、頭がぐらぐらした。吐きそうだ。鹿野がそれに気づき、手を貸す。
「傷害罪?……わかんねぇぞ」
鹿野が、真剣な顔でそう呟く。夕陽の頭に、気を失う前の記憶がよみがえる。ゴウの腕から、大量に血が出ていた。夕陽が刺したのだ。彼の大事なナイフを使って。
「おえっ……」
堪えきれずに嘔吐する。
「ええっ!ご、ごめん、冗談だ。ゴウ元気、元気だよ~死んでないよ~……お前だって俺騙したんだから、あいこだよな?な?」
「やっばい、バレたら命無い」と、鹿野が、影も見えないゴウに怯える。
「いえ……俺が全部、悪いです」
鹿野は持っていたタオルで、夕陽をきれいにしてやった。
「……お前の事、聞いたよ。苦労したんだな。でも、もうこの施設には置いておけない。拘束も、まだ解けない。ドクターから電話あるまで、待機だ」
「わかりました」
夕陽は素直に飲みこんだ。
ゴウを利用して、兄に一矢報いたかった。自分から、いろいろなものを奪った兄に、同じ傷を抱えてほしかった。そうしないと、囚われたまま次に進めない。生きるために必要だったやりたくないことも、かさむ入院費も、すべてを忘れることで安寧を手に入れようとしている母からも、それらを全部兄に思い知らせることだけが、願いだった。その願いがある限り、どんなことでも耐えられた。夕陽が生きていられる指針だった。
それと同じくらい、ゴウにそんなことはさせたくないと、彼を汚すわけにはいかないと、そう思い始めてしまった。だから夕陽は生まれて初めて物を盗み、自分の手で終わらせようとした。
どうやらそれも失敗だ。もう何も、いらなくなった。
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