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第4話
「こちらへどうぞ」
案内されたのは、無機質な個室だった。
壁には人工観葉植物。ガラス張りのテーブル。向かい合う椅子がふたつ。
冷たくも整った空間の中で、誠司は一人、静かに資料に目を通していた。
──佐倉 美羽(18)。在学中。孤児認定。家庭なし。
プロフィール写真はなし。備考欄には、わずか数行の説明。
「引っ込み思案で控えめ。言葉遣いは丁寧。見た目は可憐で品があり、若干のハスキーボイスが魅力的です」
この言葉だけでは、どんな人物なのか想像がつかない。
ただ──理由もなく、「会ってみたい」と思った。
それが、今日叶う。
コツ、コツ、コツ──
廊下からヒールの音が近づく。ノックの音。
そして──
「失礼します」
低く、しかしどこか柔らかな響きの声。
ドアが静かに開き、そこに立っていたのは──
小柄な体に少し大きめのワンピース。
肩にかかる黒髪。伏し目がちな視線。
緊張のあまり、細い指先がわずかに震えていた。
「……はじめまして。佐倉、美羽です。よろしく、お願いいたします」
その瞬間、誠司の呼吸がふと止まった。
顔立ちは整っている。だがそれ以上に、“儚さ”があった。
何かに縋るような瞳。壊れてしまいそうな存在感。
──こんなに繊細な子が、なぜ自分の元へ?
“可憐”という言葉がこれほど似合う人間を、見たことがなかった。
「……こちらこそ。青木誠司です。よろしくお願いします」
誠司は立ち上がり、丁寧に頭を下げた。
その所作を見て、青羽──“美羽”の目が、一瞬だけ大きく開かれた。
まっすぐな目。飾らない視線。
条件でも、制度でもなく、「人」として自分を見ている目だった。
その優しさに、ひやりとした恐怖が差し込んだ。
──この人が、もっと冷たい人だったらよかったのに。
そうすれば、嘘をつく罪悪感も少しは鈍くできたかもしれない。
「どうぞ、おかけください。緊張、されてますか?」
誠司の柔らかな言葉に、美羽は小さく頷き、椅子に腰を下ろした。
その瞬間、空気がすっと変わる。
“佐倉美羽”としての人生が、今ここから動き出した。
そして、“青羽”という本当の自分には、もう戻れない気がした。
呼吸は浅く、背筋は自然に伸びる。
視線を逸らしすぎず、口数は最小限に。
「第一声が鍵になるのよ。できるだけ可愛い声を出しなさい。
声でバレたらあんたの人生終わりなんだから」
──水谷の言葉が頭をよぎる。
今日は、“自分を殺す”日だった。
「本日はお時間をいただきありがとうございます。こちら、佐倉美羽を担当しております、施設仲人の水谷です」
そう告げて入ってきたのは、スーツ姿の女性──水谷。
完璧な笑顔と、油断のない声色。
「彼女は現在、学業と施設研修を両立しております。
無遅刻無欠席、規律正しく、心身ともに健康。
控えめで従順な性格から、結婚生活にも即座に適応できると考えております」
一言一句、淀みのないセールストーク。
その間、青羽の手は膝の上で硬く握られ、微動だにしなかった。
“僕”が話す場面など、最初から用意されていない。
誠司は、黙って聞いていた。
丁寧な情報。だが、それだけでは何かが足りない気がした。
「……ありがとうございます」
一度だけ頷き、ふと、目の前の少女に視線を戻す。
「……美羽さんは、どう思いますか? 今の気持ちとか、何か……僕に聞きたいこととか」
その問いかけに、青羽の肩が一瞬だけ揺れた。
唇が、わずかに動こうとする──
だが、
「申し訳ありません。彼女は極度の緊張状態にあるようで、あまり刺激的なやりとりは避けたいと……本日も体調管理の観点から静かな対話をお願いできればと考えておりますので」
水谷が、即座に言葉を挟む。
そのタイミングの早さに、誠司の眉が、かすかに動いた。
──守っているというより、封じ込めている。
何かを隠している。そんな違和感。
しかし次の瞬間──美羽の目が、まっすぐ自分を見つめていた。
まるで、小さな動物のように。
傷つかぬように。怯えすぎぬように。
必死に、正しく見られようとしている瞳。
その目が、あまりにも儚くて──
誠司は、言葉を飲み込んだ。
「……無理をさせて、すみません」
それだけを静かに告げて、誠司は微笑んだ。
優しく、穏やかに。
大人として、彼なりの礼儀と誠意を込めて。
青羽は、その笑顔に、ほんの少しだけ目を細めた。
──こんなふうに人から微笑みかけられたのは、いつぶりだろう。
これは、“制度のための出会い”だった。
けれど、その言葉の端に、「君が話すのを、僕は待ってる」という静かな余白があった。
その優しさに、青羽の心が、わずかに揺れた。
──もしかしたら、この人は。
そんな希望が、喉の奥に浮かびかけた。
けれど、それはまだ飲み込まなければいけない。
自分は、佐倉美羽。
“青羽”という名前を、呼ばれる資格など──今の僕にはないのだから。
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