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第5話
「──胸元は詰めて。この子、胸がほとんどないから」
水谷の言葉は、まるで天気を語るかのように淡々としていた。
悪意などなく、それが“当然”であるかのような口調だった。
スタイリストが「そうですね」と頷き、生地を胸元まで引き上げて、ピンで固定する。
姿見の中には、白いドレスを着た“少女”がいた。
華奢すぎる肩。浮き出た鎖骨。何もない胸元。
まるで誰かの理想をなぞっただけの、空っぽの装いだった。
青羽──“美羽”は、その鏡を見つめながら、ふと薄く笑った。
「ああ、これは僕の結婚じゃない。
誰かのための、ただの演出だ」
衣装合わせは必要最低限。
本来なら新郎と一緒に選ぶこともあると聞いたが、水谷は最初からそれを拒んでいた。
「彼には“完成された写真”だけ見せればいいの。
余計な気遣いをさせるより、ずっとスマートでしょ?」
──誠司。彼は、きっと善意から言ったのだと思う。
「ドレスの費用は気にしないでください。
美羽さんが着たいものを選んでくれれば」
「決まったら、ぜひ写真を見せてくださいね」
その言葉に、偽りはなかった。
けれど、青羽の心には、どこにも届かなかった。
“着たいもの”なんて、最初から存在しない。
ただ「選べ」と与えられた選択肢の中で、“まだマシなもの”を選ばされているだけだった。
「こっち向いて、もう少し笑って」
「肩、下がってる。背筋、伸ばして」
「首を傾けて──そう、可愛いよ」
シャッターの音が鳴るたびに、青羽の中の何かがすり減っていく気がした。
表情、角度、ポーズ。
一つひとつが、“あの男”のために作られていく。
まるで、自分が「商品」になったようだった。
ショーウィンドウに飾られた、マネキンのように。
──誠司さんは、本当にこれで喜ぶんだろうか。
もし、本当のことを知ったら?
このドレスの下にある身体を、見たときに──?
寒気がした。
けれど、それは“嫌悪”ではなかった。不思議と。
「僕が、本当に“美羽”になれたら……
あの人の隣にいてもいいのかな」
そんな叶わぬ夢を一瞬でも浮かべてしまった自分が、怖かった。
水谷は撮影データを確認すると、すぐスマートフォンを取り出して操作した。
『衣装合わせ、完了しました。写真を添付します』
画面の中に並ぶのは、笑顔を貼りつけた“誰か”の姿。
それは、自分じゃない。──“美羽”の顔だった。
作られた表情。偽りの姿。
それでも、誠司はこの写真を見て微笑むのだろうか。
「可愛い」「俺の妻だ」と、少しでも思ってくれるのだろうか。
そう思った瞬間、胸の奥が、じんわりと痛んだ。
「ふふ、見てごらん。東雲さんから返信が来たわよ」
水谷がスマートフォンをひらひらと振ってみせる。
『とても綺麗です。美羽さんに似合ってますね。』
その文章を、どこか皮肉げに読み上げると、薄く笑った。
「“とても綺麗”──だって。
よかったわね、“美羽さん”。きっとお世辞も上手なご主人になるわ」
その言葉に、喜びはなかった。
水谷の中にあるのは、最初から“成果”だけ。
感情ではなく、点数と評価だけで物事を測る目。
青羽──いや、“美羽”は、何も言わずにうつむいた。
控室に戻ると、着替えを促された。
白いドレスを脱がされ、次に手渡されたのは──フリルのついた淡いピンクのブラジャー。
「女性として振る舞うなら、下着からきちんと。
“そういう気配”って、案外、細かいところでバレるのよ」
水谷の声は、いつも通り冷たく事務的だった。
──服よりも、化粧よりも、この瞬間が、いちばん嫌だった。
鏡の前に立ち、指先を震わせながらホックを留める。
ブラの中には、何もない。
平らな胸に、リボンとフリルだけが浮かんでいる。
その見た目を整えるたび、“なりすまし”という現実が心に突き刺さる。
「誠司さんは、この写真を見て、“とても綺麗”って言ってくれた」
でも、それは“美羽”という衣装を着せられた誰かに向けた言葉。
本当の自分には届かない、“外側”だけを褒めた感想。
「もし僕が……本当に、女の子だったら──」
その願いは、何度も、何度も頭の中をよぎってきた。
「もし、生まれたときから“女の子”だったら……
誠司さんに見合う存在になれたんだろうか」
嘘をついているのは、間違いなく自分だ。
でも、こんなにも苦しいのはなぜだろう。
──“愛されたい”と思ってしまう自分が、いちばん醜い。
そのとき、スマートフォンが静かに震えた。
誠司からのメッセージだった。
『結婚式、楽しみにしています。
緊張するかもしれませんが、無理はしないでくださいね。』
その言葉には、疑いも打算もなかった。
ただ、穏やかで。
ただ、まっすぐだった。
──ごめんなさい。
僕は、あなたを騙しています。
そう打とうとして、どうしても言葉にならなかった。
画面の向こうにいる“誰か”が、あまりにも優しかったから。
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