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第6話

朝、誠司はシャツのボタンを留めながら、ふと手を止めた。 カフスの色は何にするべきか。 腕時計はいつものもので良いか。 髪は、整えておくべきか。 「……こんなに迷うもんなんだな」 苦笑しながら鏡の前に立つ。 その表情は、どこか緊張を帯びていた。 ──今日、結婚式を挙げる。 すでに婚姻届は提出済み。制度上は“夫婦”になっている。 だが、「青木誠司」と「佐倉美羽」の人生が始まるのは、まさに今日からだった。   スマートフォンに保存された、数枚の写真。 ドレスを纏った“美羽”の姿は、どこかぎこちなく、けれど確かに美しかった。 花のように華奢な肩。緊張の滲む指先。 強張った笑顔ですら、なぜか心を掴んで離さなかった。 ──守ってやりたいと思った。 これまで、誰にも抱いたことのなかった感情だった。   不意に、遠い記憶が脳裏をよぎる。 ──かつて、誠司にも“許嫁”がいた。 平凡な家庭に生まれ、平凡な少年だった自分にも、8歳のとき、許嫁が与えられた。 それはこの国の制度の中で“幸運”とされたことだった。 そこから10年。互いを知り合い、大人になる日を待った。 18歳になれば正式に結婚する──はずだった。 だが、破談となった。 ──原因は、誠司にあった。   「……一緒になんてなれるわけ、ないじゃない」 10年の交流の果て、そう言われたときの絶望を、今でも鮮明に思い出せる。 あらゆる音が遠ざかり、視界が滲み、 ただ、孤独だけが全身を覆い尽くしていった。 それ以来、誠司は一生独身でいるつもりだった。 母が倒れ、後遺症が残るまでは──。   けれど今は、最初から“何も望まれていない”関係だ。 だからこそ、望まれなかった分の幸福を、自分の手で補えばいい。 それが、せめてもの誠実さだと思えた。   玄関を出て、式場へ向かうタクシーの中。 流れる景色が、今日はなぜか少しだけ違って見えた。 「……これが、“幸せになる”ってことなのかな」 つぶやいた独り言に、運転手がルームミラー越しに笑みを浮かべる。 「ご結婚ですか。いい日ですね。おめでとうございます」 「ありがとうございます」 少し照れくさそうに、誠司は頭を下げた。   ──花嫁はすでに、控室に入っていると聞かされた。 会えるのは、式の直前。ほんの数分だけ。 そのドアの向こうには、白いドレスを身に纏った“妻”が待っている。 あの写真の中の笑顔を、今度は目の前で見られるのだろうか。 できれば──緊張していないといい。 ほんの少しでも、安心してくれていたらいい。 願わくば──今日が、あの子にとって 「この人となら、生きていけるかもしれない」 そう思える一日でありますように。 誠司は、ただそれだけを祈っていた。   ──彼はまだ知らなかった。 この先にいる花嫁が、 「偽りの名前と、嘘の身体で、微笑もうとしている」ことを。 それでも彼は信じていた。 今日という日が、“ふたりの始まり”になると──。   式場の扉が、静かに開いた。 場内の空気が張り詰め、光と花の香りに包まれたバージンロードの奥。 そこに、“佐倉美羽”が立っていた。 誠司は、言葉を失った。 「……写真より、ずっと綺麗だ」 整えられた髪。白のドレスに包まれた細い身体。 儚さと凛々しさを併せ持ったその姿は、まるでこの場所にだけ咲いた、一輪の白い花のようだった。 美しさに、息が詰まりそうになる。   “美羽”は、ゆっくりと、一歩ずつ歩いてくる。 誰とも手を繋がず、まっすぐに、誠司のもとへ。 その距離が近づくほど、誠司の胸の鼓動は速くなっていく。 そして──互いの距離が、ほんの数歩に迫ったとき。 彼女の瞳が、誠司を見つめ、ふるえる。 一瞬だけ、泣き出しそうな顔をした。 誠司は、気づかないふりをした。 触れたら壊れてしまいそうなその感情を、そっと包むように。 「……緊張しますね」 優しく笑いかけると、彼女は小さく、こくんと頷いた。   式は、粛々と進行していった。 神父の声も、聖歌も、ただの形式にすぎなかった。 けれど、誠司の心には──確かな感情が芽生えていた。 誓いのキスの直前。 ヴェールをそっと持ち上げると、そこにいたのは、 怯えているのに、まっすぐに誠司を見つめる、“花嫁”だった。 これまで見たどんな笑顔よりも優しく、そしてかすかに、痛々しかった。 その目に、自分が映っていることが、なぜか泣きたくなるほど嬉しかった。 「……この子に、恋をした」 その瞬間、誠司は自覚した。 名前も、年齢も、制度的な役割も──何も知らない。 けれど、それでも構わない。 これから、ゆっくり知っていきたいと思った。   ──何かを、隠している。 それはずっと感じていた。 やり取りしたメッセージ。写真の笑顔。 どれも、どこかぎこちなく、何かを抑え込んでいるようだった。 けれど誠司は、“不安”だと解釈した。 年齢。施設育ち。結婚への恐れ。 裏切られたことがあるのかもしれない。 だからこそ── 「俺が、“信じられる相手”になればいい。  彼女が、心から笑えるようになるまで、ずっと」 誠司はそう、決意していた。 まさか、その“彼女”が、この世に存在しない“幻”だとは、夢にも思わずに──。   不安そうに揺れる“妻”の姿に、“夫”はふと、怖気づきそうになった。 けれどその不安を隠すように、彼はそっと、額へ唇を落とす。 それは、誠司にとって── 人生でいちばん、静かで、やさしい誓いだった。

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