8 / 59
第7話
唇が触れたのは、額だった。
結婚式での誓いのキスと言えば、唇同士だとばかり思っていた。
だからこそ──自然と身構えてしまった自分に気づく。
それが伝わってしまったのだろうか。
それとも──
(……“男”だって、気づかれた……?)
一瞬、背筋を冷たいものが走った。
けれど、そっと目を開けると、そこにあったのは、ほんの少し照れたような笑顔だった。
視線が交差したその瞬間、心臓が強く跳ねる。
唇の端、目の奥、そして耳の奥まで。
じんわりと、熱が広がっていく。
ドレスの下、手のひらにはじっとりと汗がにじみ、
指先が、ほんのかすかに震えていた。
(……この人と、本当に、結婚したんだ)
ずっと、女の人と結婚するものだと思っていた。
その未来に、迷いも疑いもなかったのに──
今、自分はこうして“花嫁”として、ひとりの男に手を取られている。
それが演技であっても。
嘘の中であっても。
このキスのぬくもりは、たしかに自分に触れた。
知らず、息を詰める。
喉の奥が熱くて、言葉にならなかった。
けれど、その静けさの中で、確かに思った。
──このキスを、忘れたくない。
そして──その直後。
誠司の手が、そっと肩に触れた。
ドレス越しに感じた、はじめての“人の体温”。
荒々しさもなく、力強さもない。
ただ、包むような静かな触れ方だった。
それだけのことなのに、涙がこぼれそうになった。
──本当に“美羽”という人間がいたなら。
この肩は、自然に、女の子として触れられたはずだった。
でも、現実にはそれができない。
式が終わり、控室に戻ったあと。
美羽──いや、青羽は、鏡の前に立ち、ドレスの背を静かに外した。
滑り落ちた白い布が、足元にふわりと舞う。
鏡の中には、自分の身体。
フリル付きのブラを外せば、そこには何もない。
女の子なら“あるはずのもの”が、なかった。
「……やっぱり、僕は“美羽”なんかじゃないんだ」
その呟きは、鏡の中の自分にも届かないほど小さな声だった。
誠司は優しかった。
「綺麗だ」と言ってくれた。
今日も、何一つ疑うことなく、自分を花嫁として迎えてくれた。
──けれど、全部、嘘に向けられた優しさだった。
その事実が、胸を貫いた。
ぽとり、と涙が落ちる。
騙しているのは、自分。
泣く資格なんて、ない。
それでも、涙は止まらなかった。
「“美羽”って人が、本当に僕の中にいたら……」
「そしたら、誠司さんに見合う人間になれたのに」
「……傷つけたくない。嫌われたくない……」
「できれば、愛してほしい……」
言ってはいけない願いが、心の底から浮かび上がってくる。
──それが、いちばんの罪だと知っているのに。
それでも、言葉にしなければ、どうにもならなかった。
花嫁の控室で、“青羽”は一人、名前のない涙を流し続けた。
誰にも聞かれないように。
誰にも見られないように。
けれど、もし──
誠司がいつか、この涙に触れる日が来るのなら。
そのときは、偽りの名前ではなく、
本当の名前で、呼んでほしい。
ただ、それだけを願った。
──◇──
「……はあああ……マジで、最悪」
喫煙室に響いたのは、水谷の苛立ち混じりのため息だった。
灰皿に放り込まれた紙くずが、くしゃりと音を立てて潰れる。
椅子に腰を深く沈め、足をリズミカルに揺らしながら、水谷は毒を吐く。
「37の男に、3ヶ月も“女の身体”に触れさせないで過ごせなんて、
無理に決まってんでしょ……!」
煙草の煙を吐き出しながら、低く、噛みしめるように言った。
──制度上、婚姻届を提出してから3ヶ月は「継続」が義務。
この期間を経ずに離婚すれば、仲人への報酬はゼロ。
“実績”も取り消され、施設評価にも響く。
つまり、“3ヶ月、結婚生活が続く”ことが何より大事だった。
そして今、問題なのは──その「3ヶ月間」をどう乗り切るか、ただそれだけだった。
「37の男がさ……18の、あんな可愛い子を目の前にして……
しかも“未経験”ってなれば……そりゃ手、出すでしょ……!」
水谷の口調は荒れ気味だった。
──美羽は、商品としては完璧に仕上げた。
容姿、所作、言葉遣い、すべてが“売れる条件”を満たしている。
だがそれは、同時にバレるリスクの高さでもあった。
「どうせ、骨の髄まで好みに染めて、あとは啜り尽くす気でしょ……あの変態が……」
その“好み”に、自分の作った人形が完璧に嵌ってしまったとしたら──。
だからこそ、水谷は焦っていた。
──胸がない? 下着で誤魔化せる。
──声? 必要最低限しか喋らせない。
──体? 触れられたら、そこで終わり。
問題は、“いつ触れられるか”ではない。
“どうすれば触れさせないまま3ヶ月を持たせるか”。
「せめて体調不良ってことで逃げられれば……
でも毎晩は無理だし、仮に押し倒されたらどうすんのよ……」
頭を抱えたい気持ちだった。
嘘で作った子供に、ここまで神経を削るとは思わなかった。
だが、金は絶対に取り返さなければならない。
美羽の“仕込み”にかかった費用、時間、労力──
それらすべてを報酬という形で回収するには、この結婚を“成立”させるしかない。
「……いい? 3ヶ月、持たせなきゃダメ。
それまで絶対、気を抜くな。
バレたら全部こっちの責任になるからね」
何度も言い聞かせてきた。
けれど、相手はまだ18の子供。
男であることを隠しながら、“夫”の隣で暮らす。
それがどれほど危ういバランスか、水谷は骨の髄まで知っている。
「ったく……本当よくやったよ、“美羽”なんて面倒なもん作ってさ……」
煙草の先を乱暴に灰皿へ押しつけながら、吐き捨てるように言う。
──3ヶ月。
新婚で“体調不良”で済ますには、あまりにも長すぎる。
もしあの子が失敗して戻ってきたら、そのときは──
一生、無償で使い倒して、いびり倒してやらなきゃ気が済まない。
水谷は、今後はもう手出しができない立場であることに、苛立ちを隠せず、燻るタバコの火を力任せに揉み消した。
(……それでも、愛してくれたら)
そんな、愚かで哀れな希望だけは、
どうか──あの子の中に芽生えていませんように。
それは祈りというより、呪いに近かった。
ともだちにシェアしよう!

