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第7話

唇が触れたのは、額だった。 結婚式での誓いのキスと言えば、唇同士だとばかり思っていた。 だからこそ──自然と身構えてしまった自分に気づく。 それが伝わってしまったのだろうか。 それとも── (……“男”だって、気づかれた……?) 一瞬、背筋を冷たいものが走った。 けれど、そっと目を開けると、そこにあったのは、ほんの少し照れたような笑顔だった。 視線が交差したその瞬間、心臓が強く跳ねる。 唇の端、目の奥、そして耳の奥まで。 じんわりと、熱が広がっていく。 ドレスの下、手のひらにはじっとりと汗がにじみ、 指先が、ほんのかすかに震えていた。 (……この人と、本当に、結婚したんだ) ずっと、女の人と結婚するものだと思っていた。 その未来に、迷いも疑いもなかったのに── 今、自分はこうして“花嫁”として、ひとりの男に手を取られている。 それが演技であっても。 嘘の中であっても。 このキスのぬくもりは、たしかに自分に触れた。 知らず、息を詰める。 喉の奥が熱くて、言葉にならなかった。 けれど、その静けさの中で、確かに思った。 ──このキスを、忘れたくない。   そして──その直後。 誠司の手が、そっと肩に触れた。   ドレス越しに感じた、はじめての“人の体温”。 荒々しさもなく、力強さもない。 ただ、包むような静かな触れ方だった。 それだけのことなのに、涙がこぼれそうになった。   ──本当に“美羽”という人間がいたなら。 この肩は、自然に、女の子として触れられたはずだった。 でも、現実にはそれができない。   式が終わり、控室に戻ったあと。 美羽──いや、青羽は、鏡の前に立ち、ドレスの背を静かに外した。 滑り落ちた白い布が、足元にふわりと舞う。 鏡の中には、自分の身体。 フリル付きのブラを外せば、そこには何もない。 女の子なら“あるはずのもの”が、なかった。 「……やっぱり、僕は“美羽”なんかじゃないんだ」 その呟きは、鏡の中の自分にも届かないほど小さな声だった。   誠司は優しかった。 「綺麗だ」と言ってくれた。 今日も、何一つ疑うことなく、自分を花嫁として迎えてくれた。 ──けれど、全部、嘘に向けられた優しさだった。 その事実が、胸を貫いた。 ぽとり、と涙が落ちる。 騙しているのは、自分。 泣く資格なんて、ない。 それでも、涙は止まらなかった。   「“美羽”って人が、本当に僕の中にいたら……」 「そしたら、誠司さんに見合う人間になれたのに」 「……傷つけたくない。嫌われたくない……」 「できれば、愛してほしい……」 言ってはいけない願いが、心の底から浮かび上がってくる。 ──それが、いちばんの罪だと知っているのに。 それでも、言葉にしなければ、どうにもならなかった。   花嫁の控室で、“青羽”は一人、名前のない涙を流し続けた。 誰にも聞かれないように。 誰にも見られないように。 けれど、もし── 誠司がいつか、この涙に触れる日が来るのなら。 そのときは、偽りの名前ではなく、 本当の名前で、呼んでほしい。 ただ、それだけを願った。   ──◇──   「……はあああ……マジで、最悪」 喫煙室に響いたのは、水谷の苛立ち混じりのため息だった。 灰皿に放り込まれた紙くずが、くしゃりと音を立てて潰れる。 椅子に腰を深く沈め、足をリズミカルに揺らしながら、水谷は毒を吐く。 「37の男に、3ヶ月も“女の身体”に触れさせないで過ごせなんて、  無理に決まってんでしょ……!」 煙草の煙を吐き出しながら、低く、噛みしめるように言った。   ──制度上、婚姻届を提出してから3ヶ月は「継続」が義務。 この期間を経ずに離婚すれば、仲人への報酬はゼロ。 “実績”も取り消され、施設評価にも響く。 つまり、“3ヶ月、結婚生活が続く”ことが何より大事だった。 そして今、問題なのは──その「3ヶ月間」をどう乗り切るか、ただそれだけだった。   「37の男がさ……18の、あんな可愛い子を目の前にして……  しかも“未経験”ってなれば……そりゃ手、出すでしょ……!」 水谷の口調は荒れ気味だった。 ──美羽は、商品としては完璧に仕上げた。 容姿、所作、言葉遣い、すべてが“売れる条件”を満たしている。 だがそれは、同時にバレるリスクの高さでもあった。 「どうせ、骨の髄まで好みに染めて、あとは啜り尽くす気でしょ……あの変態が……」 その“好み”に、自分の作った人形が完璧に嵌ってしまったとしたら──。 だからこそ、水谷は焦っていた。   ──胸がない? 下着で誤魔化せる。 ──声? 必要最低限しか喋らせない。 ──体? 触れられたら、そこで終わり。 問題は、“いつ触れられるか”ではない。 “どうすれば触れさせないまま3ヶ月を持たせるか”。   「せめて体調不良ってことで逃げられれば……  でも毎晩は無理だし、仮に押し倒されたらどうすんのよ……」 頭を抱えたい気持ちだった。 嘘で作った子供に、ここまで神経を削るとは思わなかった。 だが、金は絶対に取り返さなければならない。 美羽の“仕込み”にかかった費用、時間、労力── それらすべてを報酬という形で回収するには、この結婚を“成立”させるしかない。   「……いい? 3ヶ月、持たせなきゃダメ。  それまで絶対、気を抜くな。  バレたら全部こっちの責任になるからね」 何度も言い聞かせてきた。 けれど、相手はまだ18の子供。 男であることを隠しながら、“夫”の隣で暮らす。 それがどれほど危ういバランスか、水谷は骨の髄まで知っている。   「ったく……本当よくやったよ、“美羽”なんて面倒なもん作ってさ……」 煙草の先を乱暴に灰皿へ押しつけながら、吐き捨てるように言う。 ──3ヶ月。 新婚で“体調不良”で済ますには、あまりにも長すぎる。 もしあの子が失敗して戻ってきたら、そのときは── 一生、無償で使い倒して、いびり倒してやらなきゃ気が済まない。 水谷は、今後はもう手出しができない立場であることに、苛立ちを隠せず、燻るタバコの火を力任せに揉み消した。   (……それでも、愛してくれたら) そんな、愚かで哀れな希望だけは、 どうか──あの子の中に芽生えていませんように。   それは祈りというより、呪いに近かった。

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