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第8話
夜の空気は、昼よりもずっと重たかった。
結婚式の余韻が消え、髪もメイクも落としたあとの“素顔”。
スイートルームには、華やかだった時間の名残が、静かに残っていた。
青羽──いや美羽は着替えを終えると、部屋の隅のソファに座ったまま動かなかった。
水谷の言葉が、何度も脳内でこだまする。
「バレたら、終わりよ」
「3ヶ月よ。絶対に触れさせないこと」
「できなければ、あんたは“廃棄”されるだけ」
──触れられた瞬間、全てが終わる。
でも、それ以上に怖いのは、誠司の優しさだった。
もしも、ほんとうに優しく触れられたら。
壊したくないと思ってしまったら。
……そのとき、自分の方が崩れてしまうかもしれない。
バスルームの水音が止まる。
数秒後、誠司がパジャマ姿で部屋へ戻ってきた。
ふたりきりの空間に、言葉が浮かばない。
呼吸の音すら、ひどく大きく感じた。
「……部屋、寒くないですか?」
静かな問いかけに、青羽は小さく頷いた。
その瞬間──
胸の奥で張っていた糸が、ふと切れた。
声もなく、涙が零れた。
泣くつもりなんてなかったのに。
けれど、どうしても止まらなかった。
“こんなにも温かい人が、どうして自分の夫なんだろう”
「……ごめんなさい……」
俯いたまま、小さく呟く。
誠司はしばらく何も言わず、美羽を見ていた。
やがて、あたたかな声が落ちてくる。
「怖いんですよね。無理もないです」
その言葉に、また一粒、涙が落ちた。
「今日は何もしません。大丈夫です」
優しく、はっきりとした口調だった。
「無理に一緒に寝る必要もありません。
僕はソファで休みます。ベッドは、どうぞ好きに使ってください」
青羽は、何も言えず、その背中を見送った。
彼はソファに向かい、何も言わず、ただブランケットを肩に掛けた。
“本当に、何もしないでいてくれるんだ”
安堵と、なぜか少しだけ痛みが胸に残る。
誠司に抱きしめられたかったわけじゃない。
ただ、“ちゃんと人として扱われた”ことが、驚くほど嬉しくて──
それが、自分にとってどれほど飢えていたものだったかを知ってしまった。
「……これが、“美羽”じゃなくて、“僕”でも許されることなら」
そう思ってしまった自分が、一番罪深い。
ソファに背を向けたまま、青羽は静かに泣いた。
言葉も、音も立てず。
ただ、小さな呼吸のなかで、あたたかな夜に沈んでいく。
それは、偽りの初夜。
けれど、この夜だけは──
どうか、終わらないでいてほしいと、願ってしまった。
──そして朝が来る。
カーテン越しの光が、淡く室内を染める。
新しい一日が、容赦なく始まる。
ソファに横たわる誠司は、ぼんやりと天井を見つめていた。
──結局、眠れなかった。
隣のベッドに目をやる。
白い布団は、微かに動いていた。
彼女も、眠っていない。
ふと声をかけようとして──やめた。
まだ、お互いの距離感さえ定まらない。
慎重でいたかった。
その頃、青羽もまた、目を閉じたまま、静かに朝を迎えていた。
心臓は、まだ少し早い。
呼吸のたびに、昨夜のことが思い出される。
あの静けさが、救いだった。
初めて誰かに泣き顔を見せてしまったあの夜が、どうか夢じゃありませんように──と、どこかで願っていた。
やがて、ソファが軋む音。
誠司が立ち上がる。
「……これから、少し支度します。
お着替え、必要ですよね?」
やわらかな声に、青羽は反射的に頷いた。
「終わったら、ノックしてください。
その間、僕は廊下にいます」
ドアノブに手をかけたところで、ふと振り返る。
「あ、朝ごはん……どうしましょうか」
少しだけ声が和らぐ。
「僕は何でも大丈夫ですから。苦手なものも特にないので。」
青羽は、のどの奥に詰まりながらも答えた。
「……誠司さんの、好きなものを。
私も、同じもので……大丈夫です」
それは、水谷に教え込まれた“模範解答”。
──でも、なぜかその言葉は、少しだけ自分の意志にも思えた。
誠司さんと同じものを食べたい。
ただそれだけで、「ふたりでいる」気がする。
「……わかりました」
その返事は、やさしく微笑んでいるような声だった。
「じゃあ、洋食にしましょうか。パンとベーコンに、スクランブルエッグがのってるものです。」
「……私も、それがいいです」
そう答えた自分の声が、ほんの少しだけ柔らかくなったことに気づく。
誠司はそれに気づいたのか──ただ静かに頷いた。
しばらくして、部屋に朝食が運ばれてきた。
トレーの上には、ホテルらしく丁寧に整えられたワンプレート。
ふわりとやわらかく仕上げられたスクランブルエッグに、香ばしく焼かれたベーコンとソーセージ。
その脇には、焼きトマトと小さなハッシュドポテト。
バターが添えられた厚切りのトーストに、小さなジャムの瓶。
カットされたフルーツと、冷たいオレンジジュースもセットになっていた。
まるで誰かが理想の「洋食」を丁寧に模倣してつくったような、美しい朝ごはん。
美羽は、手をそっと重ねて言った。
「……いただきます」
そう口にしたその声は、たしかにわずかだけ震えていたけれど、
誠司の目には、それがどこかほっとしたようにも映った。
バターの香りがやさしく広がる。
スクランブルエッグはとろりとしていて、ベーコンの塩気とちょうどよく合う。
普段なら「こんなもの食べたことがない」と思っていたかもしれないのに──
今だけは、「これが美味しい」と思ってしまった自分がいた。
罪悪感と、それ以上のぬくもり。
ふたりは、はじめて「同じものを選んだ」。
それが、たとえ嘘の上に築かれた関係だとしても──
それは確かに、“ふたりの朝”だった。
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