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第9話

朝食を終えると、誠司がふと言った。 「新居に案内しますね」 ホテルの部屋を出て向かった先。 白を基調にしたリビングに、明るい木目の家具が並ぶ整った空間。 生活感がまだ薄く、まるでモデルルームのようだった。 美羽──いや、青羽は、どこに座ればいいのかも分からず、立ち尽くしていた。   「家具も日用品も、基本的には僕が用意しました。  ……正直、女性の好みはよく分からなくて。  だから、何か欲しいものがあれば、遠慮なく言ってください」 玄関に荷物を置きながら、誠司がそう言った。 その瞳に、打算も押しつけもない。 ただ、相手を思いやろうとする誠実さだけがあった。 「……名前に恥じない人だ」 そう思ったとき、胸の奥がまた締めつけられた。 「……ありがとうございます」 それが、やっと絞り出せた返事だった。   「もしよかったら、このあと少し出かけませんか?  街を案内しながら、生活用品も揃えたいなと思って」 “もしよかったら”。 その一言が、青羽の中の緊張をすっと緩めた。 頷くと、誠司は嬉しそうに微笑んだ。   買い物は順調に進んだ。 タオルや日用品、部屋着に食器── 気づけば、どの袋にも淡いピンクと白ばかりが詰まっていた。 パジャマも、スリッパも、歯ブラシも。 水谷がいつも言っていた。 「女の子ならピンク。  “そういうもの”を選べば失敗しないのよ」 刷り込まれるように選んだ色。 誠司はそれを見て、言った。 「美羽さんは、こういう色が好きなんですね」 青羽は曖昧に笑った。 否定できなかった。──でも、肯定したわけでもなかった。   買い物がひと段落した頃。 ショッピングモールの一角で、誠司がふと足を止めた。 ガラスケースの中。 整然と並ぶリングたち。 「……指輪のことなんですけど」 その言葉に、青羽の心臓が跳ねた。   「本当は、結婚式のときにちゃんと選ぶべきだったんですが……  あのときは、気が回らなくて。すみません」 言葉は穏やかで、どこか申し訳なさそうだった。 でも、そこには確かに「一緒に選びたい」という誠司の想いがあった。 青羽は黙ったまま頷いた。   誠司の「気に入ったものがあれば」という声に、 視線は自然と、ジュエリーショップの隣にある、小さなコーナーへ吸い寄せられた。 子ども向けのカラフルなリングたち。 ハート、リボン、星。500円で手に入る、軽くて可愛い“女の子のおもちゃ”。 ──水谷が教えた。 「そのあたりなら買ってもらっても文句は出ない。  “美羽”として扱われるなら、ピンクを選びなさい」 言葉を思い出しながら、迷わずピンクを探した。 でも、気づけば── 指先が、違う色に伸びていた。 淡いブルーの、飾り気のないリング。 可愛さよりも、どこか落ち着きがある色。 それは、青羽として“好きだった色”だった。   (しまった) 手に取ってしまったことに気づいたときには、もう遅かった。 戻そうとした、その瞬間──   「とても素敵な色ですね」 誠司の声が、すぐ背後から届いた。 「美羽さんに、似合いそうだ」 そう言って、ためらいもなく── そのブルーのリングを、青羽の左手の薬指にそっとはめた。   軽い。 けれど、指先が熱を持った。 そのリングが、なぜか宝石よりも重く感じた。 「……どうして、こんなことで心が震えるんだろう」   きっと水谷なら、こう言うだろう。 「安物で喜ぶなんて、馬鹿みたい」 「よくもまあ、得意げに……」 「本当に、見る目のない男で助かったわ」 鼻で笑って、吐き捨てるだろう。 でも誠司は──違った。 何の価値もないこの指輪を見て、 「素敵だ」と、迷いなく言った。 それだけで、世界が少し違って見えた。   ──そして、怖くなった。 こんなふうに、大切にされてしまったら。 嘘をつき続けることなんて、できるわけがない。   薬指で、ブルーのリングが微かにきらめいた。 “美羽”には似合わない色。 でも、“青羽”には──確かに似合っていた。 自分で選んだ、初めての色だった。

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