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第10話

夕暮れが街をゆっくり染めていく頃、新居の玄関をくぐった。 両手に提げた買い物袋のビニールが、乾いた靴音とともに響く。 白い壁。木の床。差し込む西陽。 家具はすでに整っているのに、まだ誰の気配も宿っていない部屋に── 美羽、いや、青羽は、ほんの一瞬だけ、足を止めた。   テーブルに荷物を置く誠司の横顔を、そっと見る。 袋の中には、パステルカラーの下着、フリルつきのスリッパ、可愛らしい雑貨たち。 どれも“女の子”らしい色と形で統一されていたはずだった。 ──なのに、ひとつだけ。 淡いブルーのリングが、ぽつんとその中に混ざっていた。 (……ピンクじゃなかったんだ) あのときだけ、彼女の指先は迷わず青を選んだ。 それがほんの気まぐれだったのか、素が出てしまっただけなのか── 誠司はわからなかったが、問いただすような真似はしたくなかった。 (あれが、彼女の“本当の好み”なら……それでいい) それに──たぶん、遠慮もあったのだろう。 あの安価なリングは、500円もしない。 けれど彼女は、それをどこか誇らしげに、そっと指にはめていた。 (……本物の指輪は、ちゃんと僕が用意しよう) 誠司はそう心に決めた。 そのときこそ、夫婦としての“本当の始まり”を刻むものとして。   「今日は、僕が夕飯を作りますね」 買い物袋を整理しながら、誠司が自然にそう告げた瞬間、 美羽は反射的に顔を上げた。 「……わたしが、作ります」 それは条件反射だった。 (男は、胃袋を掴まれたら落ちる。 だから、必ず“あんた”が作るのよ──) 水谷の言葉が、頭の奥で反響する。   けれど、誠司は柔らかく笑って首を振った。 「大丈夫です。料理、好きなんですよ。  それに──このキッチン、一度使ってみたかったんです」 そう言って、手早くエプロンをつけ、すぐにコンロの前へと立つ。 ──入る隙すら、なかった。 キッチンの入り口に立ち尽くしながら、青羽はそっと目を伏せる。 (……優しい。優しすぎて、怖い) これ以上、大切にされたら。 嘘を、続けていられなくなる。 それでも、このあたたかく穏やかな時間だけは、どうか壊れないでほしかった。   ふと、視線が左手に落ちる。 淡いブルーのリングが、小さく光っていた。 軽くて、壊れそうで、安っぽいはずなのに── それがなぜか、“家族”という名の重みを持っていた。 指先に、やっと見つけた“居場所”がある気がした。   やがて、テーブルに並んだ夕飯。 味噌汁。豚の生姜焼き。甘い卵焼き。 炊き立てのごはんから立ちのぼる湯気が、ふたりの間をふんわりと満たしていた。 「熱いので、気をつけてくださいね」 誠司の声に、美羽は小さく「いただきます」と手を合わせる。 その仕草に、誠司の心がじんわりとほどけた。 (……誰かとこうして、食卓を囲むの、いつぶりだろう) 母と食卓を囲むことは、もう叶わない。 病を患った彼女には、刻んだ食事を与えるだけで精一杯だった。 ただ、誰かのために料理をして、 その人が「美味しい」と言って食べてくれる── そんなあたりまえの光景が、こんなにも温かいなんて。   誠司は、美羽の箸の動きを静かに見守っていた。 口に運ぶたびに、どこか緊張したような仕草。 味噌汁をすするときに目を伏せ、焼き魚の骨に戸惑って箸が止まる。 お茶をひと口飲み込むときの、小さな喉の動き── そのどれもが、“暮らしに不慣れな証”だった。 施設では、まともな生活を送ってこられなかったのだろうか。 (……ここでは、気を遣わずに生きていってほしい) 誠司は心の中で、静かにそう願った。   そのとき── 「……甘いです」 美羽が、卵焼きを口にして、ぽつりと呟いた。 それは、否定でも、好意でもなく、ただの感想。 けれど、誠司は思わず身を乗り出した。 「苦手でしたか?」 美羽はすぐに首を横に振る。 その口元が、ほんのわずかに緩んでいた。 「……優しい味、だと思いました」 その言葉が、胸に染みた。   それだけで、十分だった。 彼女が、ここで食べてくれていること。 “まずくない”と感じてくれたこと。 一緒に食べるこの時間を、ほんの少しでも受け入れてくれたこと。 すべてが、静かな喜びだった。   やがて、誠司は言葉を選びながら口を開いた。 「……美羽さんが、ここで少しでも落ち着けたらいいなと思ってます。  ゆっくりでいい。少しずつ、この家を“ふたりの家”にしていきましょう」 その声に、美羽は小さく目を見開いて── そして、うなずいた。 ほんのわずかに、けれど確かに。   指には、あの淡いブルーのリングが揺れていた。 それを見て、誠司は密かに思った。 (……今日も、それをつけてくれてるんだな。なんだか……嬉しい) 言葉には出さなかった。 けれど、その小さなリングだけが、今のふたりを確かに繋いでいた。   食卓を挟んだ距離は、まだ遠い。 でも、その間には── あたたかい湯気と、同じ料理の香りが漂っている。 「ふたりで食べている」という、たったそれだけの事実が、 この日、確かに“家庭”の始まりを告げていた。

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