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第11話

誠司が作ってくれた夕食は──本当に、美味しかった。   施設での食事は、いつも冷めきっていた。 子どもの数が多いため、配膳に時間がかかるからだった。 温かい料理が冷えるのを、ただ待つしかない。 始まれば始まったで、箸の持ち方が違う、背筋が曲がってる、よそ見している── そんな難癖をつけられ、細い棒で手の甲を叩かれる。 そのうち、食事そのものが怖くなった。 緊張して、胃が縮む。 箸が進まなくなり、食は細くなっていった。   しかも──お米はいつも、硬めだった。 少しでも満腹感を得られるようにと、わざと炊き加減を固くしてある。 それが当たり前だと思っていたのに。 今、目の前のごはんは、ふっくら柔らかく、ほんのり光っていた。 (こんなごはん……あったんだ) 頬がゆるみそうになって、慌てて噛みしめる。 嬉しいのに、それすら戸惑う自分がいた。   ──だけど、やってしまった。 夕食を終え、食器を流しに運ぼうとしたとき。 手が滑った。   ピンク色の湯呑みが、カラン、と床に落ちた。 続けて──パリン、と乾いた音が弾ける。   その瞬間、美羽の動きが止まった。 全身が硬直し、視線だけが床に釘付けになる。 破片が、あちこちに散っていた。 息が苦しい。心臓が早鐘を打つ。 (やばい──怒られる) 咄嗟に破片を拾おうとした手が、ふるふると震える。 そのまま、肩をすくめるように身を縮めた。 「す、すみません、ごめんなさい……次から、気をつけます……!」 必死で口を動かす。謝り続ければ、怒られずに済むかもしれない。 そう、施設ではずっとそうだった。 謝ることだけが、許される術だった。 (また、怒鳴られる……また、何かを失う……) 怖くて、声が震える。 食器ひとつ割っただけで、どれだけの罰が待っていたか── それを、体が覚えていた。   そのとき、小さな足音が近づいてきた。 誠司だった。   (来た──) もう、声が出なかった。 叩かれるかもしれない。 呆れられるかもしれない。 あるいは、この“嘘の結婚”すら、終わるかもしれない。   けれど──次に聞こえたのは、怒声でもため息でもなかった。   「コップが割れたのか……怪我はないか?」   静かで、低くて、温度のある声だった。 冷たくない。 ただ、それだけで、美羽の瞳が揺れた。   振り返ると、誠司がそっと近づいてきた。 タオルを手に持って、美羽の手を取る。 「あ──」 指先に、小さな切り傷があった。 うっすらと、血がにじんでいる。 誠司はその指先をそっと拭いながら、静かに言った。   「……少し切れてるな。ガーゼ、持ってくる。  あっちのソファで座ってて。踏んだら危ないから」   「……怒らないんですか」   その言葉は、つい漏れたものだった。 美羽自身も、驚いていた。 誠司は少しだけ動きを止め──そして、柔らかく笑った。   「怒る理由がないから。  コップなんて、誰だって割る。気にしなくていい」 「でも……買ってもらったばかりで……」 「また買えばいいよ。  それに、そんなことで怒るような人間は、  この家には住んでない」   そう言って、誠司は額にかかった髪をそっと払った。 指先はとても優しかった。 まるで、何かを壊さないように──そっと触れるような手つきだった。   少しして、誠司が持ってきたのは、 ガーゼと──もうひとつ、湯気のないお茶だった。 ほんのりぬるくなった湯飲みを差し出しながら、誠司が呟く。   「……これしかなかった。あったかい方が、良かったよな」   その一言で、なぜだかわからないまま、胸がいっぱいになった。 怒鳴られることも、責められることもなくて。 代わりに渡されたのは、ぬるいお茶だった。 たったそれだけで、 泣きたくなるほど、あたたかかった。   「怪我、大したことなくて良かった」 ガーゼをぺたりと貼られ、 「あとで絆創膏に替えましょうね」と、囁かれる。 その声が、ひどく優しくて── 青羽は、涙を必死に飲み込んだ。   「……ありがとうございます」 やっとの思いで出した言葉に、誠司はただ、静かに言った。 「どういたしまして」 そして、ふたたびキッチンへと戻っていった。   その背中を、美羽はじっと見つめていた。   ──もしも、この人がずっと、こうしていてくれるなら。 この優しさが、嘘じゃないのなら。 自分は、この人の隣で、“美羽”として生きていけるかもしれない。   ほんの少しだけ。 そんな希望を、信じたくなった。

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