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第12話
「……あとは、僕がやっておきますね」
割れた湯呑みを片づけながら、誠司が静かにそう言った。
美羽はその横顔を見て、ほんの一瞬だけ、困ったように眉を下げる。
「……じゃあ、わたしが……」
咄嗟に口をついて出た言葉。
自分が割ってしまったのだから、自分で片づけなければ。
それどころか、夕飯を作ってもらい、洗い物までさせてしまって──
(……これじゃあ、私がここに“いる意味”すらない)
何かを返さなければ。
そうでなければ、この優しさに溺れてしまう。
けれど、誠司は変わらぬ穏やかな笑顔で、首を横に振った。
「大丈夫です。……指、怪我してますし。
あ、でも──今日のお買い物で、タグがついたままのものがいくつかありましたよね。
それを片づけてくれると、助かります」
優しく、けれどしっかりと目を見て。
「やることは、まだありますから」
──その言葉に、美羽は自然と頷いていた。
ただの“配慮”かもしれない。
でも、やることを「与えられる」ことが、こんなにもありがたいなんて。
(……ここにいてもいいって、少しだけ思えた)
寝室の奥、クローゼットを開けると、
誠司が手配してくれていた箪笥が、ぴたりと置かれていた。
その横には、小ぶりのドレッサー。
柔らかな花模様の椅子が添えられ、優しい光をまとっていた。
──誰がどう見ても、“女の子のための部屋”だった。
(……これ、全部……誠司さんが……?)
思わず、指先が震えた。
流行や“女性らしさ”を押しつけたような家具じゃない。
かといって無難さで誤魔化されたわけでもない。
色も、サイズも、手触りも、きちんと選ばれたものたちだった。
自分の好みなんて、知らないはずなのに──
なのに、この空間は、不思議なほど“居心地がいい”。
青羽は小さなはさみを手に取ると、
パジャマに付いたタグを一つずつ、丁寧に切っていった。
淡いピンクのパジャマ。
本当は、そこまで好きな色じゃない。
──でも、今日はなぜか、その色がとても優しく見えた。
この部屋にあるものたちは、
命令されたものでも、媚びて得たものでもない。
ただ、「君のために」と思って選ばれたもの。
誰かが“自分のために”選んでくれた、初めてのものたち。
(……私なんかが、こんなふうに扱われていいわけないのに)
胸の奥が、じんわりと痛んだ。
けれどその痛みは、冷たくなかった。
むしろ、初めて知った“あたたかい痛み”だった。
ふと、キッチンから食器の音が聞こえた。
重なり合う皿の音が、遠くでやさしく響いている。
(……ありがとうって、言えたらいいのに)
けれど、声にはまだできなかった。
でも確かに、青羽の中で──
「ここで生きていたい」という願いが、ゆっくりと芽吹きはじめていた。
寝室のベッドへと視線を向ける。
そこには、ふたつのシングルベッドが並んでいた。
ぴったりとくっついてはいない。
人がひとり──いや、それ以上──通れるほどの距離が、静かに空いている。
(……よかった)
安堵が、ふっと胸に広がる。
今日はあまりにも優しすぎた。
優しさに飲み込まれそうで、怖くなるくらいだった。
だから、夫婦として“適切ではない”この距離が──
今の青羽には、何よりありがたかった。
「お風呂、先にどうぞ」
リビングから声をかけてきた誠司は、変わらず柔らかく笑っていた。
強制も遠慮もなく、ただ、自然な気遣いとして。
(……本当に、優しい人だ)
青羽はそっと頷き、部屋に戻る。
寝間着とタオルを手に取ったとき──
ふと、左手のリングに目が留まった。
淡いブルー。
誠司が「似合う」と言ってくれた色。
安物の指輪なのに、誰にも奪われたくないと思った。
──でも、お風呂に入るなら、外さなければいけない。
「……どこに、置こう」
引き出し? 棚? ポーチ?
どこに置いても、壊れてしまいそうで、不安だった。
気づけば、ドレッサーの前に立っていた。
椅子を引き、ゆっくり腰を下ろす。
鏡の中に映るのは、タオルとパジャマを持った“美羽”。
けれど──その瞳だけは、“青羽”だった。
睫毛も、髪型も、洋服も、全部“作られた花嫁”。
でも、その奥にいる自分は、とてもじゃないけど「笑える心境」じゃなかった。
(……どうして、こんなに……)
喉がつまる。
呼吸が、うまくできない。
(……どうして、こんなに大事にされてしまったんだろう)
誠司の優しさが、怖い。
優しくされればされるほど、この嘘が罪に思えてくる。
──誠司さん。
あなたが信じてくれている“美羽”は、本当はこの世にいないんです。
本当の私は、“僕”なんです。
あなたが大切にしてくれているものは、全部、偽物なんです。
(……本物の女の子だったら、よかったのに)
その想いだけが、心の底に沈んでいた。
このまま、ずっと騙せたらいいのに。
永遠に仮面をかぶったままで、いられたらいいのに。
ずっと、誠司さんの隣で、“奥さん”でいられたら──
(……でも、それは叶わない)
青羽は静かにリングを外し、ドレッサーの上に置いた。
カタン、と軽い音がした。
それが、どうしようもなく寂しく聞こえた。
鏡の中の“美羽”は、綺麗に微笑んでいた。
でも、その奥にいる“青羽”は──もう泣きそうだった。
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