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第13話

湯上がりの身体に、パジャマの布がそっと寄り添う。 淡いピンクの生地は、昼間に買い物袋で見たときよりも、 なぜか少しだけ、やさしく感じられた。 けれど、胸のざわめきは、いっこうに消えなかった。   ──もうすぐ、誠司がこの部屋に戻ってくる。 夜が、本当の意味で“ふたりのもの”になる。 その事実を思うだけで、手足の先が冷えていく。   (言わなきゃ……「今日は、このまま寝ましょう」って……) 初夜を断るための言葉を探す。 「緊張していて」「少し疲れていて」── 理由は山ほど浮かぶのに、どれも喉をすり抜けていかない。 疑われたらどうしよう。 見抜かれたら。 優しさの下に、本当は冷たさが隠れていたら。 思考が渦を巻いて、声が出なくなる。 (……そんなの、言えない) 息を殺すように、布団をかぶった。 目を閉じる。ただの寝たふり。 それが、今の青羽にできる、唯一の抵抗だった。   やがて── 寝室のドアが、そっと開く音がした。 スリッパのかすかな擦れる音。 足音が近づくにつれ、喉の奥で心臓が跳ねる。 ──誠司さん……。   けれど、次に感じたのは、 掛け布団の端が、やさしく整えられる感覚だった。 肩までかかっていなかった毛布が、静かに掛け直される。 そして── 「……いい夢を」 低く、落ち着いた声がそっと落ちてきた。 それだけ。   ベッドの反対側が、静かに沈む。 誠司は、何も訊いてこなかった。触れもしなかった。 ただ、「美羽が眠っている」と信じて── そのまま背を向け、隣で眠ろうとしていた。   (……どうして、そんなに優しいの) 胸が、きゅうっと痛んだ。 涙が、閉じたまぶたの裏で静かににじむ。 “ありがとう”も、“ごめんなさい”も、何も言えなかった。 でもその夜── 青羽は、生まれて初めて「誰かと並んで眠る」というぬくもりを知った。 それは、本当にやさしい夜だった。   ──◇──   朝が、ゆっくりと部屋に差し込んでいた。 カーテンの隙間から漏れた光が、ベッドの端に淡く伸びている。 誠司はまだ眠っていた。   青羽は、そっと息を整えると、静かに布団を抜け出した。 (今度は……私が、朝ごはんを作る) 寝間着の袖をまくり、昨日整えておいた箪笥へ向かう。 ゴムで髪をまとめ、鏡の前に座る。   ドレッサーの上に置かれた、あのリングに手を伸ばした。 昨夜、外して置いた、淡いブルーのリング。 ──今日は、自分の意思で、それを嵌める。   冷たさの残るリングが、指にそっと触れた瞬間、 不思議と、胸の奥に落ち着きが宿った。   (誠司さんに、嫌われたくない) それが、今の正直な気持ちだった。 でも──だからこそ、 本当の自分を明かしてはいけないとも思った。 知られてしまったら、すべてが壊れる。 誠司の優しさが、本物であればあるほど、怖くなる。   (完璧な妻を、演じなきゃいけない) 嘘を守るために、ちゃんと朝ごはんを作って、 笑って、「おはよう」と言える人間にならなければならない。   (せめて……誠司さんの“妻”として、相応しい人に) そう思うことだけが、 今の自分にできる、唯一の“償い”のような気がした。   リングをはめた手を、ぎゅっと握る。 その重みが、偽りでも、今の“自分”の形を教えてくれる。 (……嘘のままでもいい。  でも、せめて──優しさに背を向けない妻でいたい)   小さく頷き、青羽はドレッサーをあとにした。 パジャマの裾が揺れる。 その音は、誰にも聞こえない、小さな決意の証だった。   ──◇──   薄明るい光が、まぶたの裏を照らす。 誠司は、静かに目を覚ました。 寝室のカーテンは、まだ閉じられている。 空は白み始めたばかりで、外はまだ静寂の中にある。   (……何か、音がする) 冷蔵庫の扉が閉まる音。 食器棚が引き出される音。 そして、コンロに火が灯るかすかな響き。   誠司は、ゆっくりと身体を起こし、キッチンの方へ目を向けた。   そこにいたのは、パジャマ姿の美羽。 まだ何も言葉を交わしていない朝。 淡いピンクの布に包まれた背中が、静かに、でも一生懸命に動いていた。   (……起きてすぐに、支度をしてくれてるんだ) 胸の奥が、じんわりと熱を帯びる。   どこかぎこちない手つき。 でも、それを隠すように、丁寧に、丁寧に手を動かすその姿に、 “義務”ではない、何か──小さな覚悟のようなものが見えた。   細い肩。 少し長めの袖が手首を包んで、ふわふわと動く腕が、カップを並べ、鍋に手を伸ばす。   その背中が、ひどく小さく、そして強く見えた。   (……彼女は、今この瞬間を、大事にしてくれている) それだけは、ちゃんと伝わってくる。   (僕を“夫”として、どう思っているんだろう) 誠司はまだ、自分の立ち位置を掴みきれていなかった。 でも── 彼女の作る朝が、今、こんなにもいとおしい。   (……おはよう、って。どうやって声をかけたらいいんだろう) その小さな問いを胸にしまいながら、誠司はしばらく、声をかけるのをやめた。 ただ黙って、朝の光の中、“妻”の背中を、静かに見つめていた。

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