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第14話

「……おはようございます」 その声がした瞬間、誠司の胸の奥に、柔らかな衝撃が走った。 振り返ったキッチンの入口に、美羽が立っていた。 鍋の蓋を持ったまま、少しだけ照れくさそうに笑っている。   はにかむようなその笑顔は、 まるで朝の光の中で、小さな花がふわりと咲いたようだった。   寝起きのぼんやりした頭の中に、その声がまっすぐに届く。 ハスキーな声が魅力的、とあったが、それがこんなにも胸に届くなんて。 (……なんて、やわらかい声だ) まだ“夫婦の会話”には程遠いけれど、 昨夜までとは明らかに違う空気があった。 何かが、少しだけ動き出した──そんな気がした。   「おはようございます」 返事をしたのは、ほんの少し間を置いてからだった。 あの笑顔に、言葉が一瞬だけ追いつかなかった。   「よければ、先にシャワーをどうぞ。  朝の支度、もうすぐで終わりますから」 差し出された言葉に、誠司はふっと息を吐いた。 「……ありがとう。お言葉に甘えて」 そう言って、浴室へ向かう。 扉に手をかけた瞬間、胸の奥が、じんわりと温まっていくのを感じた。   (美羽さんは、ちゃんと“ここにいる”) 何もかもを理解しているわけじゃない。 まだ好きなものも、嫌いなものも、知らないことも多い。 だけど、「朝ごはんを作る」という選択を、彼女自身がしてくれた。 それだけで、胸が満たされるような気がした。   (この人を……大事にしたい) 守る、じゃない。支配でも、所有でもない。 “ただ、大切にしたい”という気持ち。 毎日そう思える相手がいることが、こんなにも尊いなんて。 バスルームの静けさの中で、誠司はそっとその思いを心に刻んだ。   ──そしてその頃。 キッチンの隅では、青羽がそっと指輪をはめ直していた。 誠司のために、今朝だけでも“完璧な妻”であれるように。 手は震えていた。 でも、それでも火をつけ、湯を沸かし、 彼女は“夫のための朝食”を仕上げようとしていた。 たった一度の、偽りの朝。 けれどその小さな決意こそが、ふたりの第一歩だった。 ──◇── 「──あの、美羽さん。これ、受け取ってもらえますか」  「……はい?」 不思議そうに手を伸ばすと、封筒の中には一枚のカード。 「カード、ですか?」 「はい。家族カードです。これから買い物をすることも増えるでしょうし、現金よりも使いやすいと思って」 美羽は、カードの銀色の光沢をまじまじと見つめた。  ──“MIU AOKI”と印字されている。 たったそれだけなのに、何かが胸の奥にずしりと重たく落ちてきた。 (……“妻”になったんだ、私) 「それと、これも一緒に」 もう一つの封筒を渡され、中を見ると──中には現金が数枚、丁寧に折りたたまれていた。   「……これは……?」 「お小遣いです」 「えっ……でも……!」 美羽が慌てて返そうとすると、誠司は小さく首を振った。 「家族カードがあっても、使うのに気が引けるんじゃないかと思って。  それなら、これは“自分の分”として、自由に使ってください」 「……あ……」 「もちろん、これだけじゃ足りないと思ったら、カードも使ってください。  無理して節約する必要はありませんから」 その言い方があまりにやさしくて、美羽はうまく言葉を返せなかった。 「……ありがとうございます。大切に、使わせていただきます」 「うん。たまには、欲しいものを我慢しないで。ね?」 その笑顔があたたかくて、美羽はそっと、手の中の封筒を握りしめた。 ──◇──   「行ってらっしゃいませ」 玄関で、ふわっと笑って手を振る美羽の姿が、 今も誠司の胸の中に残っていた。 カーテン越しのやわらかな朝日。 少しだけ照れたような声。 小さな手のひら。   (……あれが、結婚なんだな) 式でも、指輪でもない。 「いってらっしゃい」と誰かに見送られることが、 こんなにも心に残るとは思っていなかった。 ネクタイを締め直しながら、誠司はオフィスの自動ドアをくぐった。   「おっ、来たな誠司! ついに“人妻ゲット”だな〜?どんな子だった!?奥さん18なんだろ!?……っていうか、37と18はギリ合法、だよな?」 誠司の姿を見つけると開口一番、くだらない声が飛んできた。 声の主は、同期の熊田。 仕事はできるが、口が軽く、悪ノリが過ぎるタイプ。 その熊田に続いて、もう一人の同期・笠井がやってくる。 「で? 初夜どうだったよ、誠司さん。やっぱピッチピチの18歳だもんなぁ、そりゃもう……ねぇ?燃え上がった?」 「──…まさか、何もしてないとかないよな?!」 ふたりの言葉が、平日の朝から軽々しく飛び交う。   誠司は、少しだけ口元をゆるめた。 「……まあ、ぼちぼち、だよ」 それだけを言って、苦笑でごまかした。 ──本当は、手すら繋いでいない。 だけど、あの朝ごはんのやさしさや、 「おはようございます」の声がどれほど大切だったか── ここで語る気には、とてもなれなかった。   「おい誠司、ちょっとはノってこいって!そういうとこが“院卒感”出てんだよ〜、真面目すぎんのがたまに玉にキズ!」 「だよな、熊田。俺らの大卒組と違って、誠司ってさ、三歩くらい引いてんのよ。なんか“品行方正”の塊!!」 熊田と笠井は、大学を卒業してすぐ入社した同期。 一方で、誠司は大学院を出てからの入社組。年齢にして、ふたりより3つ上。 その微妙な“ズレ”は、ふとしたノリの差に表れていた。 「……まあ、ぼちぼち、だよ」 苦笑いで受け流しながら、誠司は内心で息を吐いた。 けれど──その内側では、誠司の中にひとつだけ、はっきりとした思いが根を張っていた。   (あの子は……こんな下世話な話の“材料”にされていいような存在じゃない) あの手は、震えていた。 それでも、火を扱い、包丁を持ち、ぎこちない手つきで朝食を作ってくれた。 それだけで、胸が詰まった。 彼女の背中に── どんな軽口も、冗談も、ましてや“男の都合”なんてものは、向けられるはずがない。   それを笑いのネタにできる人間と、自分は違っていたいと思った。 (俺は、あの子を“大切にする”って決めた) 誰にどう言われようと、それだけは揺るがない。 軽口も、嘲笑も── あの小さな背中を守るには、ただ静かに受け流せばいい。 誠司は、自席に向かいながら深く息を吐いた。 美羽がくれた「いってらっしゃい」が、まだ胸の中にあった。 それは、誰にも汚されてはいけない“約束”のように思えた。

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