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第15話

洗濯物を干す手が、ふと止まる。 誠司のシャツ── 肩幅の広い、厚手の白い生地。 その無駄のない形が、まるで着る人の誠実さを写し取ったようだった。 (……大きいな) 何度干しても、同じ感情が湧く。 身長も、声も、体温も、自分とはまるで違う世界の人間。 それなのに──あの人は、いつもやさしい。 (こんなに素敵な人なのに、なぜ……) なぜ、いままで結婚していなかったのか。 あれほど整っていて、思いやりもあって、“欠けたところ”なんて何ひとつないのに。 (……きっと、何かを抱えてる) そう思ってしまうのは、自分が“何かを隠して生きている”からだ。   その隣で、ピンクのブラが風に揺れている。 それは「女の子らしさ」を演出するためだけの道具。 補正もできない、安っぽい布切れ。 (くだらない) 誰かを騙すために生きるなんて。 それでも──あの優しさに触れるたび、嬉しくなるなんて。 (そんな自分がいちばん、くだらない)   掃除機の音だけが、静かにフローリングに響く。 リビングのソファ、手触りのいい生地。 シンプルで上品なダイニング。 整ったキッチン、寝室のベッド── (……いくらかかったんだろう) 結婚に必要だと信じて、誠司が一つひとつ整えてきた空間。 それを眺めるうち、 胸の奥に、ある衝動がふと湧きあがった。 (全部……壊してやりたい) 優しさも、好意も、 自分を“妻”だと錯覚させるような温かさも── すべて、嘘の上に築かれたものなら、いっそ壊れてしまえばいい。   ──でも、すぐにもう一つの感情が、静かに押し返す。 (……壊したくない) 指に通されたリング。 名前を呼ばれ、玄関で手を振られた朝。 一緒に食べた食事。 小さくても、確かにそこにあった「家族の形」。 それを壊したくないと思ってしまう自分がいた。   掃除機のスイッチを切って、青羽はしばらく立ち尽くした。 (こんな日々が、長く続くはずない) でも、それでも。 今だけは、“いい人間として”この家にいたいと思ってしまった。   ──それが、浅ましさなのか。 それとも、初めて知った願いなのか。 その答えは、晴れた空の向こうにまだ見えなかった。   ──◇──   「……結婚の件、報告させていただきます。正式に一緒に暮らし始めました」 昼前、誠司は上司の席に立ち、必要な報告を終える。 「……なかなか結婚しないから、興味がないんだと思ってたんだがな。良かったな、おめでとう。」 あくまで形式的に返された言葉。 視線も合わさないまま、上司は書類へ視線を落とす。   だが、そのすぐ後ろから──熊田の声が飛んだ。 「ええ~!? 課長ぉ~? それだけっすか!?誠司の門出っすよ!? もっと、こう……ねぇ?何かないんすか!?」 ふざけた口調とともに、お札を数えるような仕草を見せると、すかさず笠井も乗ってきた。 「祝い金祝い金! 少し包んでくれたら、誠司も一生ついて行きますよ〜!」 「……ったく、お前らな……」 上司は呆れたようにため息をつき──ひと言。 「分かった。考えておく。……その代わりと言っちゃなんだが、君ら3人、とっても暇そうだから、今から契約書類の整理を頼むよ」   「………えっ?」 「マジかよ〜」 「……そんな怒る?」   こうして、書庫に追いやられたのは、誠司・熊田・笠井の同期トリオの3人。 「でもさ〜、今どき紙とか、ほんっと信じらんねーよな、この会社」 「電子化の時代に、こんなの逆行じゃん」 ブツブツと文句を言いながら、熊田と笠井は書類の山にため息をつく。 社の方針で、契約関係は温かみがあるから、と“紙神話”が根強く残っている。 紙があることで、紙の契約書の作成・保管と電子化作業と手間がかかる。 さらに、その紙も一定期間が過ぎると廃棄しないとならないという二度手間。 「あー‥本当めんどくさい!!」 「これ、いつも白井“先輩“が率先してやってたんだよな〜。あいつも、物好きだよな。」 口ばかり動かして手を動かさない2人の前で、誠司は黙々と手を動かしていた。 (この紙の感触……嫌いじゃない) 契約書に使われる少し特殊な紙。 薄くてすべすべして、コピー用紙とは違う感触があった。   黙々と仕分けていくうち、熊田がバインダーを片手に寝転がる。 「せーちゃん、相変わらず真面目だねぇ……ちょっと休憩しようぜ〜」 「まあ、誠司がいると早く終わるから助かるけどな。」 と笠井が笑い、ふと顔を上げて言った。   「……そういやさ、熊田聞いた?」 「何を?」 「白井の誠司への嫌味ったらしい結婚祝いの言葉。」 その言葉に熊田が「はぁ!?あいつ、また性懲りも無く!」と鼻息を荒くした。 「誠司!お前、何言われたんだよ!」 その言葉に、誠司ではなく葛西が返事をする。 「“結婚おめでとう。お前もついに結婚か。それにしても若い奥さんなんて、羨ましいなぁ!俺の奥さんと取り替えて欲しいわ〜“だってよ!!全然祝ってねーじゃん!なぁ!?」 「本当、あいつ最低だな!!!あいつも、子供産まれた〜とか報告してきた時、若い嫁さんもらって正解だった〜!とか、めちゃくちゃ自慢してきたのにな!?」 手にした契約書を握り潰した熊田が「捻り潰してやりたい!!」と鼻息を荒くするのに、苦笑いをした。 「でもさ…白井さぁ…最近、やたら羽振り良いよな?」 笠井が眉をひそめる。 「だよな。時計も変わってたし、名刺入れもブランドもんだった」 「営業成績もパッとしないのに、金どこから出てんだ?」 熊田が冗談めかして言う。 「副業でもしてんのか?“いらっしゃいませ〜”って接客してんじゃね?」 誠司はそのやりとりに苦笑しつつも、書類から目を離さなかった。 ──熊田と笠井は知らない。 自分と白井の間にある、もっと深い因縁を。   そしてこのとき、まだ誰も気づいていなかった。 山のような紙の中に──ある“仕掛け”が隠されていたことを。

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