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第16話

「……ん?」 積み上げた契約書の束を確認していた誠司の指が、ある一枚の上で止まった。 すべすべの契約書の上を滑っていた指先が、ふと掠めたのは白い紙の表面に、わずかなザラつき。 印刷の上に浮かんだ、かすかな違和感。 指先で注意深く撫でると分かるほどの、小さな小さな痕跡。 「……何か変だ‥。」 低くこぼれた声に、熊田と笠井が顔を上げた。 「何かの汚れがついてるとかじゃないのか?」 「……ん?でも本当だな。何かざらついてるな。」 誠司は眉を寄せながら、修正部分を確かめるように、そっと指を添える。 「ザラついてるの、金額欄が、二箇所、だな…」 熊田が肩をすくめた。 「契約書の上にお菓子こぼしたとかなんじゃないの?」 笠井も同意するように頷く。 「金額欄の所だけ、器用にな!」 ケラケラ笑った熊田と笠井だったけれど、誠司の神妙な様子に、三人の空気に、ほんの少しの緊張が混じっていく。 静かに、誰からともなく息を呑む。   「……不正とかじゃ、ないよな?」 笠井が冗談のように呟いた言葉に、熊田が苦笑する。 「不正って、どうやってやんだよ。不正できねーように、向こうが透ける紙使ってんだろ?」 そう言っていると、誠司がふと顔を上げた。 「例えばだけど、テープか何かを貼った上に印刷したとしたら…?」 「あー、印刷した後にテープ剥がせば、書き換えられるって?」 熊田が答えるのに、誠司が頷いた。 「紙は一定期間で廃棄される。だから、“修正後の紙”さえ作れれば、そのままPDF化されて、本物として残る”……つまり、紙が“最後の証拠”なんだ」 「いやいや、マジだったら笑えねーよ。ってか、そもそも誰の契約書だよ」 笠井の言葉に、誠司はページをめくり、署名欄を指先でなぞる。 「……“白井 一也”」 その名に、二人の顔色が一瞬だけ変わった。 「白井……って、あの白井?」 「……まさか、あいつが?」 一斉に蘇る記憶。 ここ最近、派手になった腕時計。 ブランド物の名刺入れ。 外回り中の、やたら頻繁な新しいカフェの発掘。 営業成績はずっと下位のままなのに、羽振りも良い気がしていた。 妻も子供もいるのに、成績が下位でも焦ってる様子もなかった。 (……どこかで、引っかかってた) 誠司は書類をそっと戻しながら、静かに口を開く。 「……念のため、過去の契約書も確認しよう。  同じような修正があるなら、証拠になるかもしれない」 「マジかよ……完全に面倒なやつじゃん」 「……でも、見なかったふりはできねぇな」 三人は無言で別の棚に手を伸ばす。 冗談もなく、茶化すこともなく。 けれどその空気には確かに、「俺たちでやるか」という温度があった。 (……こいつらが同期でよかった) 誠司は、小さく笑みを浮かべた。 今は、三人で“本気”を出すときだった。   ──◇──   「今日は帰りが遅くなりそうだから。無理せず、先に休んでください」 届いたメッセージは、短く、丁寧で、優しかった。 けれど、どうしようもなく寂しかった。   ダイニングテーブルの上には、二枚の白いプレート。 レシピを何度も確認して作ったハンバーグ。 色鮮やかなサラダ。 火加減に気をつけたコンソメスープ。 これが、美羽にとって“初めて”だった。 ──誰かのために、本気でごはんを作るなんて。 (……おいしいって、言ってくれるかな) その言葉を聞きたくて、調味料の分量を何度も見直した。 盛り付けも何度もやり直して、ようやく「これでいい」と思えた。 なのに── (……帰ってこない) 温かかったスープは、今はもう冷めている。   テレビもつけず、スマホも触れず、 ただ静まり返る部屋で、自分の指先が食器を触る音だけがやけに大きく響く。 (“先に寝てて”って、言われたから……初夜のこと、考えなくて済むはずなのに) 布団に潜っても、指輪を嵌めた左手だけがじんじんと熱い。 (この手で作ったごはんを、食べてほしかっただけなのに) 喉の奥が詰まり、目元がじわりと熱くなる。   “美羽”として選ばれたことも、 “女の子”として信じてもらえていることも──全部、嘘。 (でも……たった一度くらい、  この人に、何かしてあげたかっただけなのに)   テーブルの上の、誰にも手をつけられないハンバーグ。 それが、自分の存在そのもののように思えてしまう。 (……冷めちゃったね) 誰にも届かないその言葉は、 夜の部屋の中へ、静かに吸い込まれていった。   ──◇──   午前0時を過ぎたころ、玄関の鍵が静かに回る。 重そうなバッグを肩から外し、誠司はスーツの襟を引っ張った。 (……まだ、頭が冴えたままだ) 書庫で見つけた白井の書類。 修正の跡、不自然な日付のズレ。 そのコピーを持ち帰り、明日はさらにデータと照合するつもりだった。 そんな思考を引きずったまま、リビングのドアを開ける。   部屋の中は、やわらかな明かりに照らされていた。 テーブルの上に、ラップで包まれた一皿。 整った盛り付け。隣にはスープポット。 そして、小さな紙に手書きの文字。 ──「温めてください」   (……作ってくれたんだ) 今日、初めて── “美羽が、自分のために作ってくれた晩ごはん”。 そのことを思い出し、誠司は息を整える。 ジャケットを脱ぎ、静かに手を洗い、椅子に座る。 目の前の食事に、そっと手を合わせた。 「……いただきます」   ナイフを入れると、ハンバーグは柔らかく崩れ、中までしっかりと火が通っている。 口に運ぶと、どこか優しい味が広がった。 スープをすすると、野菜の甘みとだしの旨みが、静かに身体に染み込む。 (……あたたかい) それは味でも温度でもない。 美羽が、自分のために使ってくれた“時間”が、そこにあった。 それだけで、胸がじんと熱くなる。 (……遅くなって、ごめんな)   この食卓こそが、自分にとっての「帰る場所」だと、初めて思った。 誠司は、残さずすべてを食べきり、食器を洗い終える。 そして── 寝室の前で、静かに立ち止まり、そっと言葉を落とした。   「……美羽さん。ありがとう」 眠っている彼女に届くはずのない言葉。 それでも、それを言わずにはいられなかった。 その夜、ふたりは違う場所で、それぞれのやさしさと孤独を胸に眠った。

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