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第17話

カーテンの隙間から、わずかに朝の光が差し始めていた。 アラームも鳴っていない早朝。 けれど、美羽は小さな物音に目を覚ました。 寝室のドアが、そっと開く音。 スーツの布が擦れる気配。 洗面所の蛇口がひらかれる、水の音。   (……誠司さん、もう起きてるんだ) 布団の中からそっと抜け出し、寝癖を整える。 そのあいだに、リビングの奥からコーヒーの香りが漂ってきた。 部屋に出ると、誠司がネクタイを締めていた。 「……おはようございます」 「おはようございます。……すみません、今日は早く出社することになってて」 申し訳なさそうに笑う声は、いつもと同じ、優しい声だった。 「昨日の仕事、少し手間取りそうで……帰りも遅くなるかもしれません」 「……わかりました」 少しだけ、寂しさを堪えるように返す。 そんな美羽の顔を見て、誠司はふと動きを止めた。 そして、真正面から目を見て──そっと言った。   「昨日の晩ごはん、すごく美味しかったです。 ……本当に、ありがとうございました」   その言葉に、息が止まる。 返事をしようとして、言葉が出なくて、 美羽は小さくうなずいた。   コートを手に取り、玄関へ向かいかけた誠司は、 途中で一度だけ振り返った。 「ごちそうさまでした。……行ってきます」   ドアが閉まったあと、静まり返る部屋の中。 美羽は、胸元にそっと手を置いた。 (ちゃんと、届いた……) たった一皿の、たった一度の“ありがとう”。 それが、今朝の光の中で 何よりもあたたかく、救いだった。   ──◇──   「──美羽ちゃーん。いるんでしょ? 開けなさいな〜」 チャイムとほぼ同時に響いた声に、 洗いかけのマグカップを取り落としそうになる。 (……この声──) 耳が覚えている。 否応なく体が反応する、その響き。 「水谷です。結婚生活の定期確認よ。さっさと開けて」 明るく飾った声色。けれど、そこに迷いはない。 命令口調のその人は、あの頃のままだった。   震える指でドアロックを外し、ゆっくりと扉を開ける。 現れたのは、化粧の濃い笑顔と、見覚えのあるヒールの音。 「へぇ、なかなか良い部屋じゃない。 さすがエリート様との“新婚生活”ってとこね。 一番の稼ぎ頭を選び取ったんだから、あんた、私に感謝してね?」 口元は笑っていたが、その目は一切笑っていなかった。   美羽は、ただ「どうぞ」とだけ言い、後を追う。 水谷は当然のように靴を脱ぎ、 真新しいリビングを見渡すように歩いていく。 「……無駄がなくて、清潔で……ああ、なるほどね。 37まで結婚できなかった男らしい部屋ね。面白味の欠片もない。」 ソファに腰を下ろし、美羽を見上げるようにして言った。 「……で? あんた、まだ“男”ってバレてないのね」 ピクリと、美羽の指先が揺れた。 「三ヶ月……それまでは分かってるわよね?」 声もなく、こくりと頷く。   「はあ……ほんっと、金目のものが何にもないわね。 あんた、本当に愛されてんの?」   指をひとつ鳴らし、部屋の中を冷たく見渡す。 「マグカップは無印、テレビも普通、小物も地味。 ……センスは悪くないけど、売れるものじゃないわね。 どうせなら、もう少し“値段のつく暮らし”しなさいよ」 美羽は、息をひそめて立ち尽くす。   「いい女ってのはね、 アクセサリー、バッグ、化粧品── そういうものを『貢がせて』なんぼなの。 男に選ばれたからって、安心してちゃダメなのよ。 “高く売れる女”にならなきゃ、生き残れない」 美羽は言い返せないまま、拳を固く握る。 その横で、水谷は棚を勝手に開け始めた。 引き出しが、乱暴に開け閉めされる音が心臓に突き刺さる。 (やめて……そこには、触らないで) けれど、声に出すことはできなかった。   最後まで何も出てこなかったのか、水谷はつまらなさそうに鼻を鳴らす。 「ま、今日はいいわ。何もないなら仕方ない。 でもまた来るから。次までには……分かってるわよね?」 振り返りもせず玄関向かう。 「次の子はねぇ、あんたと違って、よくできた子なの。 楽しみだわ〜、あの子はほんと、仕込み甲斐があるのよ」 ご機嫌に去っていくその背中を、美羽はただ黙って見送った。 心に浮かんだのは──ただひとつ。 言葉にするまでもない、静かな軽蔑だった。 同情ではない。恐れでもない。 あの人が“楽しみ”と笑う、その無神経さに、自分の中の何かが、確かに冷えた。 (この人には……心なんてものは、少しも残ってないんだ)   「でも、また来るから」 その一言だけ、置き土産のように投げ捨てて、扉の向こうに消えた。   静かになったリビングに、美羽はただ立ち尽くす。 半開きになった棚の扉。 乱された空気。 何も壊されなかったのに、何かを“侵された”ような感覚。 (……また来る) それだけが、重く、体にまとわりつく。   ──次は、何を奪われるんだろう。 守りたいものが増えるほど、奪われる恐怖が、ゆっくりと忍び寄ってくる。   気づけば、どれほど時間が経っていたかもわからなかった。 美羽は、テーブルの椅子に腰を下ろし、ただ、自分の手をじっと見つめていた。 (何も取られなかった……それだけで、よかったはずなのに) なのに、心は凍えたまま。 指先はまだ、かすかに震えていた。   スマートフォンの通知が、ぽんと震える。 「──今日は、早く帰れそうです」 誠司からの、短いメッセージ。 (……帰ってくる) 優しくて、何も知らない誠司さんが。 そのことが、どうしようもなく、胸を締めつけた。 (……言いたい) 「水谷が来た」と、今すぐ伝えたくなった。 でも、言えなかった。   (今言っても、困らせるだけ) だから── 震える指でスマホを置き、ゆっくりと息を吸う。 (だったら、わたしは……“妻”として)   静かに立ち上がり、エプロンを手に取る。 少しずつ、体に熱が戻っていく。 (今日は、何を作ろう) 昨日はハンバーグ。 じゃあ今日は── 冷蔵庫を開けると、食材が二人分、丁寧に並んでいた。 (誠司さんの好きな味、ちゃんと知りたいな)   これは“演技”じゃない。 誰に命じられたわけでもない。 ただ、自分の手で、温かいごはんを作るということ。 それが今の自分を、どうしようもなく支えてくれる。 フライパンを温める音が、部屋の冷たい空気を、少しずつ押しのけていく。  その夜、美羽はまた一つ、 “妻”という名前の重みを感じながら── それでも、笑おうと決めた。   誠司のために。 この家の温かさを、壊されないように守るために。

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