18 / 59
第17話
カーテンの隙間から、わずかに朝の光が差し始めていた。
アラームも鳴っていない早朝。
けれど、美羽は小さな物音に目を覚ました。
寝室のドアが、そっと開く音。
スーツの布が擦れる気配。
洗面所の蛇口がひらかれる、水の音。
(……誠司さん、もう起きてるんだ)
布団の中からそっと抜け出し、寝癖を整える。
そのあいだに、リビングの奥からコーヒーの香りが漂ってきた。
部屋に出ると、誠司がネクタイを締めていた。
「……おはようございます」
「おはようございます。……すみません、今日は早く出社することになってて」
申し訳なさそうに笑う声は、いつもと同じ、優しい声だった。
「昨日の仕事、少し手間取りそうで……帰りも遅くなるかもしれません」
「……わかりました」
少しだけ、寂しさを堪えるように返す。
そんな美羽の顔を見て、誠司はふと動きを止めた。
そして、真正面から目を見て──そっと言った。
「昨日の晩ごはん、すごく美味しかったです。
……本当に、ありがとうございました」
その言葉に、息が止まる。
返事をしようとして、言葉が出なくて、
美羽は小さくうなずいた。
コートを手に取り、玄関へ向かいかけた誠司は、
途中で一度だけ振り返った。
「ごちそうさまでした。……行ってきます」
ドアが閉まったあと、静まり返る部屋の中。
美羽は、胸元にそっと手を置いた。
(ちゃんと、届いた……)
たった一皿の、たった一度の“ありがとう”。
それが、今朝の光の中で
何よりもあたたかく、救いだった。
──◇──
「──美羽ちゃーん。いるんでしょ? 開けなさいな〜」
チャイムとほぼ同時に響いた声に、
洗いかけのマグカップを取り落としそうになる。
(……この声──)
耳が覚えている。
否応なく体が反応する、その響き。
「水谷です。結婚生活の定期確認よ。さっさと開けて」
明るく飾った声色。けれど、そこに迷いはない。
命令口調のその人は、あの頃のままだった。
震える指でドアロックを外し、ゆっくりと扉を開ける。
現れたのは、化粧の濃い笑顔と、見覚えのあるヒールの音。
「へぇ、なかなか良い部屋じゃない。
さすがエリート様との“新婚生活”ってとこね。
一番の稼ぎ頭を選び取ったんだから、あんた、私に感謝してね?」
口元は笑っていたが、その目は一切笑っていなかった。
美羽は、ただ「どうぞ」とだけ言い、後を追う。
水谷は当然のように靴を脱ぎ、
真新しいリビングを見渡すように歩いていく。
「……無駄がなくて、清潔で……ああ、なるほどね。
37まで結婚できなかった男らしい部屋ね。面白味の欠片もない。」
ソファに腰を下ろし、美羽を見上げるようにして言った。
「……で? あんた、まだ“男”ってバレてないのね」
ピクリと、美羽の指先が揺れた。
「三ヶ月……それまでは分かってるわよね?」
声もなく、こくりと頷く。
「はあ……ほんっと、金目のものが何にもないわね。
あんた、本当に愛されてんの?」
指をひとつ鳴らし、部屋の中を冷たく見渡す。
「マグカップは無印、テレビも普通、小物も地味。
……センスは悪くないけど、売れるものじゃないわね。
どうせなら、もう少し“値段のつく暮らし”しなさいよ」
美羽は、息をひそめて立ち尽くす。
「いい女ってのはね、
アクセサリー、バッグ、化粧品──
そういうものを『貢がせて』なんぼなの。
男に選ばれたからって、安心してちゃダメなのよ。
“高く売れる女”にならなきゃ、生き残れない」
美羽は言い返せないまま、拳を固く握る。
その横で、水谷は棚を勝手に開け始めた。
引き出しが、乱暴に開け閉めされる音が心臓に突き刺さる。
(やめて……そこには、触らないで)
けれど、声に出すことはできなかった。
最後まで何も出てこなかったのか、水谷はつまらなさそうに鼻を鳴らす。
「ま、今日はいいわ。何もないなら仕方ない。
でもまた来るから。次までには……分かってるわよね?」
振り返りもせず玄関向かう。
「次の子はねぇ、あんたと違って、よくできた子なの。
楽しみだわ〜、あの子はほんと、仕込み甲斐があるのよ」
ご機嫌に去っていくその背中を、美羽はただ黙って見送った。
心に浮かんだのは──ただひとつ。
言葉にするまでもない、静かな軽蔑だった。
同情ではない。恐れでもない。
あの人が“楽しみ”と笑う、その無神経さに、自分の中の何かが、確かに冷えた。
(この人には……心なんてものは、少しも残ってないんだ)
「でも、また来るから」
その一言だけ、置き土産のように投げ捨てて、扉の向こうに消えた。
静かになったリビングに、美羽はただ立ち尽くす。
半開きになった棚の扉。
乱された空気。
何も壊されなかったのに、何かを“侵された”ような感覚。
(……また来る)
それだけが、重く、体にまとわりつく。
──次は、何を奪われるんだろう。
守りたいものが増えるほど、奪われる恐怖が、ゆっくりと忍び寄ってくる。
気づけば、どれほど時間が経っていたかもわからなかった。
美羽は、テーブルの椅子に腰を下ろし、ただ、自分の手をじっと見つめていた。
(何も取られなかった……それだけで、よかったはずなのに)
なのに、心は凍えたまま。
指先はまだ、かすかに震えていた。
スマートフォンの通知が、ぽんと震える。
「──今日は、早く帰れそうです」
誠司からの、短いメッセージ。
(……帰ってくる)
優しくて、何も知らない誠司さんが。
そのことが、どうしようもなく、胸を締めつけた。
(……言いたい)
「水谷が来た」と、今すぐ伝えたくなった。
でも、言えなかった。
(今言っても、困らせるだけ)
だから──
震える指でスマホを置き、ゆっくりと息を吸う。
(だったら、わたしは……“妻”として)
静かに立ち上がり、エプロンを手に取る。
少しずつ、体に熱が戻っていく。
(今日は、何を作ろう)
昨日はハンバーグ。
じゃあ今日は──
冷蔵庫を開けると、食材が二人分、丁寧に並んでいた。
(誠司さんの好きな味、ちゃんと知りたいな)
これは“演技”じゃない。
誰に命じられたわけでもない。
ただ、自分の手で、温かいごはんを作るということ。
それが今の自分を、どうしようもなく支えてくれる。
フライパンを温める音が、部屋の冷たい空気を、少しずつ押しのけていく。
その夜、美羽はまた一つ、
“妻”という名前の重みを感じながら──
それでも、笑おうと決めた。
誠司のために。
この家の温かさを、壊されないように守るために。
ともだちにシェアしよう!

