19 / 59

第18話

朝のオフィスには、いつも通りの空気が流れていた。 コピー機の音。 上司の小言。 誰かが笑っている声。 ──でも、誠司には分かった。 (……白井さん、焦ってる) 廊下をうろつく頻度。 引き出しを開ける指先の落ち着きのなさ。 書庫の前で、何度も足を止めていたこと。 昨日、自分たちが整理した契約書類の中に、“改ざんされたもの”が混ざっていた。 それに気づいた誠司たちと同じように、白井も──そのことに気づいている。 (……やっぱり、あれは本物だったんだ) ただの偶然じゃない。 目を凝らせば分かるような、意図的な“加工”。 指先に残っていた、かすかなザラつきの理由。 あれは──見落としていいものじゃなかった。   だけど、心の奥がざわついていた。 不正を暴こうとするこの気持ちは、会社のためなのか。 それとも、あの男に対する、私怨なのか。 答えが出ないまま、誠司はゆっくりと拳を握った。 ──そして、思い出す。 11年前の、あの言葉。 あの声。 あの、笑い方。   当時26歳。 大学院を出て入社したばかりの頃だった。 社会人1年目にして営業成績トップ。 資料作成も丁寧で、報告も抜かりない。 少し堅いとは言われたけれど、それなりに評価されていた。 ──そんなとき、休憩室で声をかけてきた男がいた。 「お疲れ〜。こんな時間まで頑張ってんのな」 白井 一也。 年上の先輩。 のらりとした口調と、どこか他人事みたいな笑い方。 「……白井さんも、残業ですか」 「ま、家族いるといろいろ忙しいのよ」 “家族”── そのひとことが、心に引っかかった。 その頃、誠司にはもう結婚の見込みはなかった。 誰にも言っていない。 言う理由もなかった。 ……それでも、どこかで憧れていたのかもしれない。   「そういや、お前の元婚約者って……高峰咲希だっけ?」   指先が止まる。 缶コーヒーの温度が、いきなり遠ざかっていく気がした。 「……どうして、その名前を」 誰にも話していないはずだった。 ──入社前の話。 婚約が破棄されたのは、18歳になる直前。 そして、その理由は“他言無用”という契約によって口外されていないはずだった。   白井は、缶を傾けながら笑う。 「偶然って怖いよな。……咲希、俺の嫁なんだよ。今は」   ──頭の中が真っ白になる。   「……そう、ですか」 咲希の髪の色。 泣いていた日の声。 ふとした瞬間に思い出す、あの涙。 それが、“誰かの妻”になっていたこと。 「ま、今は子どもも2人いてさ。いい奥さんだよ。……昔、お前のだったんだよな? なんか、不思議だよな」 わざとらしく缶を揺らす音が、神経を逆撫でする。   「それとさ。……婚約破棄の契約書、たまたま見つけちゃってさ。“他言無用”って、そう書いてあるってことは──何か、知られたくない理由でもあったんだろ?」   ──その瞬間、何かが冷たく凍った気がした。   「家族を持てない男が、家庭持ちの俺に勝てるの、営業成績だけっていうのも。……なんか、虚しいよな。」 乾いた笑い。 笑っていない目。 それだけを残して、白井は立ち去った。   ──それからだった。 誠司の数字が落ち始めたのは。 どこか集中できず、ミスも重なり、評価も落ちた。   それでも。 ある夜、いつもと同じように遅くまで残っていた誠司に、一本の缶コーヒーが差し出された。 「お前さ、最近おかしくね?」 二つ下の同期、熊田だった。 隣には、笠井もいた。 「白井に何か言われたんだろ。……俺らも、何となく聞いたからさ」 誠司は何も言わなかった。 でも、熊田は続けた。   「……そんなの、今更どうだっていいだろ。 お前が真面目に働いてるのは、皆知ってんだよ。 それ以上に、俺らはお前を信用してる。こんなんで潰れんなよな。」 笠井が静かに笑う。 「そうそう。俺ら“チャランポラン世代“の中でさ、お前だけは唯一の“まとも”枠だったんだからな?俺らが呑気に“チャランポラン“できるの、お前のお影なんだから──しっかりしてくれよ!!」 思わず、笑ってしまった。 笑いながら、泣きそうになった。 ──あの夜の言葉が、誠司の背中を押し続けている。 誰かが見てくれていた。 “価値がない”と嘲笑されても、自分を必要としてくれる仲間がいた。   そして今、誠司は再び──“白井”という男と向き合っている。 これは復讐なんかじゃない。 過去を打ち破って、自分の今を守るための戦いだ。 熊田と笠井、そして──家で待っている美羽のために。   誠司はゆっくりと、椅子を引いて立ち上がった。 (今度は、俺が皆を守る番だ)   ──このとき彼はまだ知らない。 白井という存在が、 やがて美羽との“家族”の輪郭をも、脅かしていくことになるとは──

ともだちにシェアしよう!