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第18話
朝のオフィスには、いつも通りの空気が流れていた。
コピー機の音。
上司の小言。
誰かが笑っている声。
──でも、誠司には分かった。
(……白井さん、焦ってる)
廊下をうろつく頻度。
引き出しを開ける指先の落ち着きのなさ。
書庫の前で、何度も足を止めていたこと。
昨日、自分たちが整理した契約書類の中に、“改ざんされたもの”が混ざっていた。
それに気づいた誠司たちと同じように、白井も──そのことに気づいている。
(……やっぱり、あれは本物だったんだ)
ただの偶然じゃない。
目を凝らせば分かるような、意図的な“加工”。
指先に残っていた、かすかなザラつきの理由。
あれは──見落としていいものじゃなかった。
だけど、心の奥がざわついていた。
不正を暴こうとするこの気持ちは、会社のためなのか。
それとも、あの男に対する、私怨なのか。
答えが出ないまま、誠司はゆっくりと拳を握った。
──そして、思い出す。
11年前の、あの言葉。
あの声。
あの、笑い方。
当時26歳。
大学院を出て入社したばかりの頃だった。
社会人1年目にして営業成績トップ。
資料作成も丁寧で、報告も抜かりない。
少し堅いとは言われたけれど、それなりに評価されていた。
──そんなとき、休憩室で声をかけてきた男がいた。
「お疲れ〜。こんな時間まで頑張ってんのな」
白井 一也。
年上の先輩。
のらりとした口調と、どこか他人事みたいな笑い方。
「……白井さんも、残業ですか」
「ま、家族いるといろいろ忙しいのよ」
“家族”──
そのひとことが、心に引っかかった。
その頃、誠司にはもう結婚の見込みはなかった。
誰にも言っていない。
言う理由もなかった。
……それでも、どこかで憧れていたのかもしれない。
「そういや、お前の元婚約者って……高峰咲希だっけ?」
指先が止まる。
缶コーヒーの温度が、いきなり遠ざかっていく気がした。
「……どうして、その名前を」
誰にも話していないはずだった。
──入社前の話。
婚約が破棄されたのは、18歳になる直前。
そして、その理由は“他言無用”という契約によって口外されていないはずだった。
白井は、缶を傾けながら笑う。
「偶然って怖いよな。……咲希、俺の嫁なんだよ。今は」
──頭の中が真っ白になる。
「……そう、ですか」
咲希の髪の色。
泣いていた日の声。
ふとした瞬間に思い出す、あの涙。
それが、“誰かの妻”になっていたこと。
「ま、今は子どもも2人いてさ。いい奥さんだよ。……昔、お前のだったんだよな? なんか、不思議だよな」
わざとらしく缶を揺らす音が、神経を逆撫でする。
「それとさ。……婚約破棄の契約書、たまたま見つけちゃってさ。“他言無用”って、そう書いてあるってことは──何か、知られたくない理由でもあったんだろ?」
──その瞬間、何かが冷たく凍った気がした。
「家族を持てない男が、家庭持ちの俺に勝てるの、営業成績だけっていうのも。……なんか、虚しいよな。」
乾いた笑い。
笑っていない目。
それだけを残して、白井は立ち去った。
──それからだった。
誠司の数字が落ち始めたのは。
どこか集中できず、ミスも重なり、評価も落ちた。
それでも。
ある夜、いつもと同じように遅くまで残っていた誠司に、一本の缶コーヒーが差し出された。
「お前さ、最近おかしくね?」
二つ下の同期、熊田だった。
隣には、笠井もいた。
「白井に何か言われたんだろ。……俺らも、何となく聞いたからさ」
誠司は何も言わなかった。
でも、熊田は続けた。
「……そんなの、今更どうだっていいだろ。
お前が真面目に働いてるのは、皆知ってんだよ。
それ以上に、俺らはお前を信用してる。こんなんで潰れんなよな。」
笠井が静かに笑う。
「そうそう。俺ら“チャランポラン世代“の中でさ、お前だけは唯一の“まとも”枠だったんだからな?俺らが呑気に“チャランポラン“できるの、お前のお影なんだから──しっかりしてくれよ!!」
思わず、笑ってしまった。
笑いながら、泣きそうになった。
──あの夜の言葉が、誠司の背中を押し続けている。
誰かが見てくれていた。
“価値がない”と嘲笑されても、自分を必要としてくれる仲間がいた。
そして今、誠司は再び──“白井”という男と向き合っている。
これは復讐なんかじゃない。
過去を打ち破って、自分の今を守るための戦いだ。
熊田と笠井、そして──家で待っている美羽のために。
誠司はゆっくりと、椅子を引いて立ち上がった。
(今度は、俺が皆を守る番だ)
──このとき彼はまだ知らない。
白井という存在が、
やがて美羽との“家族”の輪郭をも、脅かしていくことになるとは──
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