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第19話

そっと誠司が席を立つと、熊田と笠井も、何事か察したように、ほぼ同時に腰を上げた。 数分後、3人は執務室から少し離れた男子トイレの奥で、密かに集まっていた。   「……気づいたか?」 先に口を開いたのは熊田だった。声は低く、警戒するように扉の方をちらりと見やる。 「うん。やたらうろついてた。書庫の前も、俺らの席の後ろも、何度も……」 笠井が、声を落として頷く。   「──昨日の契約書、バレてるな。気づいたんだろう、あいつも」 誠司は、手にしていたメモの端を指で折りながら、ぽつりと呟いた。   「見つけたのは、3枚。でも……たぶん、もっとある」   熊田がわずかに眉をひそめる。 「でもさ、あんまり強く出ると、先に証拠消されるかもだぞ? あいつ、見た目はだるそうな“やる気ない先輩”だけど、そういうとこだけ器用だろ。帳簿とか平気でいじるし、口も上手いし」 「言い訳の一つや二つ、もう用意してるかもな」 笠井が、腕を組んで小さくうなる。   「……でも、俺らも何もしないで黙ってたら、社内的にはヤバいよな。“気づいてたのに報告しなかった”って、あとから言われたら終わりじゃん」   トイレの中に、しんと沈黙が落ちる。 誠司は、少しだけ目線を落とし、静かに言った。   「……今の段階じゃ、“黒に近いグレー”。確証を掴むには……まだ、証拠が足りない」   熊田が息をついた。 「つまり、“泳がせる”ってことか?」 「そう。こっちが気づいてないと思わせたままにして、油断したときに──決定的なミスをさせる」 笠井が小さく笑う。 「やっぱお前、刑事の素質あるよな」   熊田も肩をすくめて笑いながら言った。 「せーちゃん、昔からそういう真面目なとこ、変わんねぇな」 でも、その次の言葉で、場の空気が少し変わる。   「……たださ、そこまでバカじゃないだろ、白井。自分が疑われてるって気づいたなら、慎重になるに決まってる」   その言葉に、誠司はゆっくりと腕を組んで、数秒考えたあと、ひとつ提案を口にする。   「……なぁ、熊田。お前、バカになってくれないか?」 「……は?」 隣で笠井が即座に乗っかる。 「何言ってんだ誠司。熊田はもうバカだよ」 「おい誰がだコラ!」 小声ながら、くだらないやり取りに苦笑しながら、誠司が小さく笑う。   「……こっちから、“あえて揺さぶる”んだよ。 本人に口を割らせるしかない。そのためには、“バカそうな味方”が必要なんだ」 熊田と笠井が、顔を見合わせる。 「……なるほど」 「誠司がやるより、熊田のが自然かもな」 「だろ?俺、“ヘラヘラしてるのに深く考えてなさそうな顔”、得意だから」 胸を張る熊田に、笠井がまた吹き出す。   ──◇──   休憩室の窓際。 白井が缶コーヒーを片手に、ぼんやりと外を見ていた。 そこへ、熊田があえてわざとらしく、テンションを高めながら近づいていく。   「白井先輩〜っす。いや〜、昨日の契約書整理っすけど……マジで焦りましたよ〜。やっばいやつ混じってんじゃんって」 白井は、缶を傾けながら目を細める。 「……何の話だ?」 熊田は、少し首をすくめて笑った。 「いやいや、もう、分かってるじゃないっすか。“あれ”ですよ。“金額、ちょっと変わってる”やつ」 白井の手が、ぴたりと止まった。   「……“あれ”って、なんのことだよ」 「金額、上書きされてましたよね?あれ、多分……先輩の手元でいじったんじゃないっすか? あっちの会社も、たぶん了承済みって感じで」 白井の目がわずかに細くなる。 「……お前、何が言いたい」 熊田は、声を少し落として、真顔に近づける。   「バレてまずいってわけじゃないっす。俺、気づいたけど……二人には言ってません。あれ、俺が破棄しといたんで。……だから、今後は、俺にも少し噛ませてくれませんか?」   白井の指が、缶の上で強張る。 熊田は、そこへさらに追い打ちをかけるように──言葉を重ねた。   「今、ちょっと気になってる子がいて。若くて、めっちゃ可愛いんすよ。でもまあ、プレゼント一つ買うにも金かかるし……先輩の“知恵”、貸してもらえたら助かるんすよね〜」 缶が、ごくりと音を立てた。 白井は、しばらくの沈黙のあと──ぽつりと、こう言った。   「……いくら、欲しいんだ」   その瞬間── 「十分です。今ので、確定ですね」 ドアの隙間から、低く落ちた誠司の声。 白井が振り向いたとき、そこにいたのは── 誠司。そして、彼の手に握られたスマートフォン。   スピーカーホンの向こうから、静かに響いたのは── 「……白井。そこまでにしてくれ」 部長の声だった。   白井の顔色が、見る間に失われていく。 熊田が、やれやれという顔で、肩をすくめる。   「お疲れさまでーす。先輩、まだまだ若いっすねぇ。女の話に釣られちゃうあたりが、最高でした」   誠司が一歩、白井の前に出る。 その目は、冷たいというよりも──もう何も言わなくてもいい、というような色をしていた。   ──白井の不正は、ここに終わりを告げた。

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