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第20話

「──白井、お前、ちょっと来い」 部長の一言に、白井の背中がゆっくりと廊下の先へと遠ざかっていく。 抵抗も、言い訳もない。ただ、口を結んだまま。 誠司たちはその背中を、黙って見送った。   「……やったな!」 熊田が、ぱしんと誠司の肩を叩く。 笠井も、安堵の息を漏らして笑った。 「まさか本当に喋らせるとはな。熊田、お前すごいぞ」 「だろ〜? 本気出せば俺、できる子なんだから!」 と茶化す声に、誠司は小さく笑って──ふと、目を伏せた。 「……不正なんて、いつかはバレるのに」 そのひと言に、熊田と笠井が顔を見合わせて、 「やっぱり真面目だな、お前」と苦笑した。 誠司の中にあるのは、「正しいことをした」という確信と、 「こんな終わり方しかなかったのか」という、答えのない問いだった。   「……すみません。今日はもう仕事にならないので、帰ります」 タイムカードに手を伸ばしながら、誠司は静かに告げた。 「先に失礼します」   ──◇──   午後の風が、少し冷たくなっていた。 手袋をしていない指先に、空気がじんわりと沁み込んでくる。 (……帰ろう) ただ家に帰って、美羽の顔が見たい。 それだけを思いながら歩いていた途中──ふと、視界にあるものが映った。 ガラス越しに、小さなネックレスが並ぶアクセサリーショップ。 今まで何度も通り過ぎていたはずなのに、今日に限って、足が止まった。 ショーケースの中に、ひとつ── 淡いミルクブルーの石があしらわれた、華奢なネックレスが目に入った。   (……似合いそうだ) なぜか、すぐにそう思った。 今朝、美羽が作ってくれた朝食。 ぎこちなくも丁寧に手を動かしていた、あの指先。 笑って「いってらっしゃい」と手を振ってくれた姿。 そのひとつひとつが、今日の疲れを優しく溶かしてくれた気がした。   だから── “ありがとう”を言葉だけで終わらせたくなかった。 “守りたい”だけじゃ足りなかった。 (……だから、贈りたい) 誠司はふらりと店に入り、迷うことなくそのネックレスを選んだ。 白と銀のリボンが結ばれた小さな箱は、 まるで誰かの気持ちがそっと包まれているようだった。   「……ただいま戻りました」 玄関の扉を開けると、ふわりとスープの香りが漂ってきた。 リビングの奥に、あたたかな光が灯っている。 (……帰ってきたんだ) そう思えたことが、ただ静かに胸に沁みた。   「おかえりなさい」 エプロン姿の美羽が、そっと顔を出す。 少し疲れているようにも見えたが、 それでも“迎える表情”をつくろうとしてくれていた。   「今日も……お疲れさまでした」 「……ありがとうございます。あの、美羽さん……ちょっといいですか?」 「……?」 誠司は、上着のポケットから小さな紙袋を取り出す。 白と銀のリボンがかかった箱。 美羽の目が、それを見てわずかに揺れた。   「帰り道に、たまたま見かけて……似合いそうだなと思って」 差し出された箱に、美羽の手がすぐに伸びなかった。 (これは──) 誰かに命じられて用意されたものでも、 社交辞令で与えられたものでもない。 誠司が、自分のことを思って、選んでくれた贈り物。 それが、胸にじんとくるほど嬉しくて、怖かった。 (……受け取って、いいのかな) “本物の妻”じゃないのに。 でも、誠司の「気に入らなかったかな?」の言葉にハッとして顔を上げた。 「違うんです。……ありがとうございます」 ようやく差し出された箱を受け取ると、その指がかすかに震えていた。 リボンを解き、そっと開けた箱の中。 そこには、淡いブルーの石がひと粒、そっと光を放っていた。 とても繊細で、儚げで── まるで“美羽”という名前のようなネックレスだった。   「……すごく、綺麗です」 「……よかった」 誠司は、それ以上何も言わなかった。 ただ、穏やかに頷いて微笑んだ。   「……大事にします」 美羽はそう言って、ふわりと微笑んだ。 たとえこの嘘が、いつか壊れてしまっても。 たとえ、この優しさを失ってしまっても。 それでも──今だけは、本当に“ありがとう”を伝えたかった。   「……よかったら、つけてみてください」 その言葉に、美羽は小さく頷いて、ネックレスを取り出す。 細いチェーンが、指に絡まりそうになる。 緊張のせいか、うまく留め具がつかめなかった。 「……あの、すみません……」 見かねた誠司が、そっと息を吸い込んで言った。 「よかったら……僕が、つけましょうか?」   そのひと言に、美羽の喉がかすかに鳴った。 「……お願いします」 静かに答えて、髪を持ち上げる。 うなじから肩へ、白い素肌があらわになる。 その距離が、あまりにも近くて── 誠司は一瞬、息を呑んだ。 (……綺麗だ) 指先が震えないように、慎重に金具をつまむ。 そっと、項に手を伸ばし── チェーンの留め具を、静かに、カチリと留めた。   肌に、触れそうで触れない。 香りも、体温も、すぐそこにある。   (──このまま、抱きしめたら) そんな衝動が、一瞬だけ胸をよぎった。 けれど、それは今ではない。 その一線を越えたら、この関係はもう“仮”ではいられなくなる。 誠司は、静かに手を引いた。   「……似合います」 ただ、それだけを伝えた。 美羽は鏡を見ないまま、ふわりと笑った。 「ありがとうございます。……うれしいです」   その空気が、ふっとやわらいだ。 誠司は、テーブルを見て言った。 「……ごはん、いただいてもいいですか?」 「……はい。すぐ準備しますね」   ふたり並んだ食卓には、小鉢と彩りのいいサラダ。 いつもより少しだけ“誰かのため”が詰められていた。 誠司は手を合わせる。 「いただきます」 その声に、美羽は心の中で、そっと同じ言葉を重ねた。   “家族”なんて、まだとても言えない。 でも、たしかにここには、あたたかい時間が流れていた。

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