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第21話
「……今日、何してたんですか?」
夕食も終盤に差しかかったころ。
ふとした間で、誠司が尋ねた。
気軽な問い。特別な意図は感じない。
けれど、美羽の手の中で箸がぴたりと止まった。
(……なかったことに)
即座に、そう決めた。
水谷が来たことなんて──なかったことに。
「えっと……掃除と洗濯を、ひと通りやって……」
「うん」
「それから、近くを少しだけ散歩して……スーパーにも寄りました」
(……行ってない。ずっと、家にいたのに)
「何か気になるもの、ありました?」
「……そうですね、新しいお菓子とか、可愛いマグカップとか。でも、買わなかったです」
(……見てもいない。そもそも、見ていないのに)
「のんびり、できましたか?」
「……はい。とても」
嘘ばかり。
口を開くたび、自分の中で何かが軋む。
けれど──言わなきゃいけなかった。
「誠司さんは、今日は……お仕事、大変でしたか?」
そっと話題をすり替えながら、美羽は笑った。
笑顔を作るたびに、表情筋が強張っていくのを感じながら。
(嘘ばっかり)
(僕、なにやってるんだろう)
(何もなかったみたいな顔して、誠司さんの前にいることが──
一番、最低なんじゃないの)
それでも誠司は、変わらない声で「まあ、いろいろありましたけど」と笑ってくれた。
食卓の空気は、やさしく穏やかだった。
会話は、なめらかに続いていった。
でも──美羽の胸の奥では、痛みだけが、少しずつ広がっていた。
(ごめんなさい)
その言葉を、どうしても口にすることはできなかった。
食器を片付け、キッチンが静かになった頃。
誠司が少しだけ迷うような表情を浮かべてから、口を開いた。
「……今日は、早めに休みませんか?」
「……え?」
「ちょっと、仕事が立て込んでたのと……気づいたら、思った以上に疲れてたみたいで」
──それは、嘘ではない。
けれど、“全部”でもなかった。
本当は。
今日のいろんな出来事が重なって、心も体も、ぎりぎりだった。
ネックレスを渡したとき、あの細いうなじを見た瞬間、抱きしめてしまいそうになった。
(……まだ、“触れていい”なんて思っちゃいけない)
そう思った。
美羽の中に、まだ不安があることは分かっていたから。
その小さな影を、無理やり押しのけるような真似だけは、したくなかった。
「……はい。わかりました」
美羽は、少し驚いたような顔をして、静かに頷いた。
ふたりで並んで、寝室に入る。
並べられたベッド。その間に、人ひとり分ほどの“空白”。
美羽は、その距離に、ほんの少しだけ安堵した。
(……まだ、大丈夫)
誠司は背を向けて、静かに布団に入る。
美羽も、電気を落として、シーツを引き寄せた。
夜の静けさに包まれて、時がゆっくりと流れていく。
それなのに──なぜか、眠れなかった。
いつからだっただろう。
浅い夢の中で、水谷の声が聞こえた。
「使えないわね」
「必要とされてないのよ、あんたなんて」
耳元に、冷たい声が絡みつく。
肩がこわばり、指先から血の気が引いていく。
「……っ、や……だ……!」
「美羽さん──?」
布団の揺れに気づいて、誠司が起き上がる。
隣のベッド。
シーツが乱れ、美羽は汗を浮かべながら、眉を寄せてうなされていた。
誠司はベッドを降り、そっとその肩に手を置いた。
「……大丈夫です。もう夢です。ここは……あなたの家です」
ゆっくりと、美羽の瞳が開かれる。
まだ夢の中にいるような、揺れる瞳。
呼吸が浅く、喉が詰まっていた。
「あ、すみません……」
「謝ることじゃありません。怖い夢、でしたか?」
美羽は、小さく頷くだけだった。
それ以上、何も聞かずに。
誠司は、美羽の背中を、そっと手のひらで撫でた。
その温もりに包まれて、美羽の呼吸が、少しずつ整っていく。
(……優しい。でも、近づきすぎないでいてくれる)
それが、今の美羽には、何よりもありがたかった。
「水を、持ってきましょうか?」
「……はい」
誠司が出ていく背中を見送りながら、美羽は、暗い天井を見つめた。
(この人のこと──)
その想いは、まだ言葉にならなかった。
やがて水を飲み、少しだけ落ち着いたころ。
誠司がベッドに戻ろうとしたその時──
美羽の指が、シーツの端をそっと掴んだまま、動かなかった。
ためらいの沈黙が、数秒。
誠司は、ため息のように小さな声で言った。
「……手、繋ぎましょうか」
美羽ははっとして、誠司を見る。
驚きと戸惑い。
そして、ほんの少しの期待。
「無理にとは言いません。……でも、少しでも安心できるなら」
そう言って、手を差し出す。
その手が、ベッドとベッドの間の、わずかな距離を越えて差し出されたとき──
美羽の震える指先が、そっと、それに重なった。
手が、触れ合う。
温かくて、優しくて、まだ少し震えていた。
「……ありがとうございます」
「……おやすみなさい」
顔は見ないまま。
ただ、手だけがつながっていた。
“信じたい”と思った気持ちが、そっと、指先に宿っていた。
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