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第22話

朝、カーテン越しのやわらかな光で、美羽はふと目を覚ました。 シーツの感触。部屋の静けさ。 そして──指先に、まだ残っている“ぬくもり”。   昨夜、眠る前に誠司が差し出してくれた手。 優しくて、あたたかくて、何も言わずに繋いでくれた手。   目を開けたまま、そっと視線を横に移す。 そこには、まだ静かに眠っている誠司の横顔。 ほんの少し眉間に力が入っていて、それでも穏やかな寝息を立てていた。 (……寝顔、初めて見れた) 今までは見ないようにと、そっと視線をそらしていたのに。 今日は何故か寝顔を見てしまっていた。 いつもきちんと整えられた表情も、丁寧な言葉も、ここにはない。 ただ、“眠っているだけのひとりの人間”── そんな顔だった。   なのに、どうしてこんなにも胸が苦しいんだろう。   (騙してるのに) (誠司さんは、僕の“全部”を知らないのに) (……知ったら、きっと──捨てられる)   でも、今はこの手が、まだ繋がっている。 指先を見つめながら、美羽はそっと呟いた。 「……こんなの、ずるいよ……」   知られたくない。 でも、離れたくない。 好きになってはいけない。 でも、ずっと隣にいたい。 その矛盾全部が、胸の奥をきゅうっと締めつけてくる。 それでも、美羽はそっと、握っていた指を、ゆっくりとほどいた。   そして、まるで“夢だったこと”にするみたいに── 何もなかったような顔で、布団から出る。 (……せめて今は、完璧な“妻”でいよう) そう思いながら、そっとリビングへと向かった。 朝ごはんの支度を始める音だけが、 静かに、静かに部屋に広がっていった。 朝ごはんの支度をする手は、慣れないながらも少しずつ滑らかになってきた。 昨日の誠司の「美味しかったです」のひとことが、今も手の中に残っているようだった。 (嘘ばっかり、ついたのに) それでも──美羽は、今日も笑っていた。 朝の光に包まれたキッチンで、何でもないふりをして。 完璧な“妻”として、今日も一日を始めるために。   やがて、足音が聞こえた。 寝室のドアが開き、少しぼんやりとした顔で、誠司が現れた。 「……おはようございます」 「おはようございます、誠司さん。もう少し寝ててもよかったのに」 「いえ、ちゃんと起きないと。……美羽さんのごはん、逃したくないので」 そう言って小さく笑うその顔に、胸が、またきゅっと痛んだ。   (……ごめんなさい) 何度でも、そう思う。 でも、それは言葉にしてはいけない“謝罪”だった。   ふと、カップを取りに行こうと振り返った美羽の目に映ったのは── 着替えを手にし浴室へ向かう誠司の横顔。そして、顎にうっすらとのびた無精髭。 一瞬だけ、その視線が止まる。 (……ヒゲ。あるんだ) ごく当たり前のことなのに、 美羽の胸に、冷たい記憶が降りた。 (僕には……もう、生えてこない) まだ施設にいた頃、水谷に命じられた脱毛処置。 女として売り込むために、徹底的に除かれた“本来のもの”。 もうこれから何年も、自分の肌に体毛は戻ってくることはないだろう。   (誠司さんは知らない。  この肌も、この首も、この手も──全部、作られたものだって) 誠司がヒゲを気にせず頬を擦っているのを見て、美羽はそっと背中を向けた。 笑顔は、いつも通りに。 「……今日は、ベーコンエッグと、ちょっとだけスープ作りました」 「楽しみです」 誠司の声は変わらずやさしくて、それがまた、美羽の胸を締めつけた。 (全部、本物なのに。どうして、僕だけ……偽物なんだろう)   朝の光がまぶしくて、 その涙をごまかすには、十分だった。 朝食を終えると、誠司は「出かける準備しますね」と言ってバスルームへ向かった。 美羽はテーブルを片づけながら、ほんの少しだけ名残惜しさを感じていた。 (……もう少し、話したかった) けれど、その思いは言葉にはしなかった。   10分ほどして、しばらくしてリビングに戻ってきた誠司は── もう“夫”の顔ではなかった。   髪を整え、ネクタイをきちんと締めたその姿は、 どこか近寄りがたい雰囲気をまとっていた。 「……行ってきます」 そのひと言さえも、どこか淡々としていた。 美羽は「行ってらっしゃいませ」と笑顔で見送ったけれど、 その声に対する返事は、ごく短く、曖昧な頷きだった。   (……さっきの会話、何か変だったかな) そう思ったけれど、美羽はそれ以上考えないことにした。   ──◇──   通勤途中、誠司の頭の中には、すでに“仕事”が戻っていた。 (白井の抜けた穴は──誰かが埋めるしかない) 考えるまでもなかった。 営業の現場を知っていて、帳簿の流れも把握していて、なおかつ倫理観を問われても耐えられる人材。 熊田か笠井、あるいは自分。 けれど、熊田も笠井も、上司にはあまり好かれていない。 とくに倫理観の甘さが、たびたび上層部から指摘されていた。 (……なら、自分しかいないだろう) 誠司はそう“悟る”というより、まるで既成事実のように受け入れていた。   その時ふと、朝の美羽の声が、遠く思い出された。 (今日は……ちょっとだけ贅沢なスープ、作ってみました) 温かくて、やわらかくて、ほんの少しはにかんだような笑顔だった。 でも、その言葉も、もう輪郭が曖昧になっていた。 (……ごめん。全部、覚えていたいのに) 誠司は、スマートフォンをポケットに押し込むと、勤めを果たすために歩き出した。

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