23 / 59
第22話
朝、カーテン越しのやわらかな光で、美羽はふと目を覚ました。
シーツの感触。部屋の静けさ。
そして──指先に、まだ残っている“ぬくもり”。
昨夜、眠る前に誠司が差し出してくれた手。
優しくて、あたたかくて、何も言わずに繋いでくれた手。
目を開けたまま、そっと視線を横に移す。
そこには、まだ静かに眠っている誠司の横顔。
ほんの少し眉間に力が入っていて、それでも穏やかな寝息を立てていた。
(……寝顔、初めて見れた)
今までは見ないようにと、そっと視線をそらしていたのに。
今日は何故か寝顔を見てしまっていた。
いつもきちんと整えられた表情も、丁寧な言葉も、ここにはない。
ただ、“眠っているだけのひとりの人間”──
そんな顔だった。
なのに、どうしてこんなにも胸が苦しいんだろう。
(騙してるのに)
(誠司さんは、僕の“全部”を知らないのに)
(……知ったら、きっと──捨てられる)
でも、今はこの手が、まだ繋がっている。
指先を見つめながら、美羽はそっと呟いた。
「……こんなの、ずるいよ……」
知られたくない。
でも、離れたくない。
好きになってはいけない。
でも、ずっと隣にいたい。
その矛盾全部が、胸の奥をきゅうっと締めつけてくる。
それでも、美羽はそっと、握っていた指を、ゆっくりとほどいた。
そして、まるで“夢だったこと”にするみたいに──
何もなかったような顔で、布団から出る。
(……せめて今は、完璧な“妻”でいよう)
そう思いながら、そっとリビングへと向かった。
朝ごはんの支度を始める音だけが、
静かに、静かに部屋に広がっていった。
朝ごはんの支度をする手は、慣れないながらも少しずつ滑らかになってきた。
昨日の誠司の「美味しかったです」のひとことが、今も手の中に残っているようだった。
(嘘ばっかり、ついたのに)
それでも──美羽は、今日も笑っていた。
朝の光に包まれたキッチンで、何でもないふりをして。
完璧な“妻”として、今日も一日を始めるために。
やがて、足音が聞こえた。
寝室のドアが開き、少しぼんやりとした顔で、誠司が現れた。
「……おはようございます」
「おはようございます、誠司さん。もう少し寝ててもよかったのに」
「いえ、ちゃんと起きないと。……美羽さんのごはん、逃したくないので」
そう言って小さく笑うその顔に、胸が、またきゅっと痛んだ。
(……ごめんなさい)
何度でも、そう思う。
でも、それは言葉にしてはいけない“謝罪”だった。
ふと、カップを取りに行こうと振り返った美羽の目に映ったのは──
着替えを手にし浴室へ向かう誠司の横顔。そして、顎にうっすらとのびた無精髭。
一瞬だけ、その視線が止まる。
(……ヒゲ。あるんだ)
ごく当たり前のことなのに、
美羽の胸に、冷たい記憶が降りた。
(僕には……もう、生えてこない)
まだ施設にいた頃、水谷に命じられた脱毛処置。
女として売り込むために、徹底的に除かれた“本来のもの”。
もうこれから何年も、自分の肌に体毛は戻ってくることはないだろう。
(誠司さんは知らない。
この肌も、この首も、この手も──全部、作られたものだって)
誠司がヒゲを気にせず頬を擦っているのを見て、美羽はそっと背中を向けた。
笑顔は、いつも通りに。
「……今日は、ベーコンエッグと、ちょっとだけスープ作りました」
「楽しみです」
誠司の声は変わらずやさしくて、それがまた、美羽の胸を締めつけた。
(全部、本物なのに。どうして、僕だけ……偽物なんだろう)
朝の光がまぶしくて、
その涙をごまかすには、十分だった。
朝食を終えると、誠司は「出かける準備しますね」と言ってバスルームへ向かった。
美羽はテーブルを片づけながら、ほんの少しだけ名残惜しさを感じていた。
(……もう少し、話したかった)
けれど、その思いは言葉にはしなかった。
10分ほどして、しばらくしてリビングに戻ってきた誠司は──
もう“夫”の顔ではなかった。
髪を整え、ネクタイをきちんと締めたその姿は、
どこか近寄りがたい雰囲気をまとっていた。
「……行ってきます」
そのひと言さえも、どこか淡々としていた。
美羽は「行ってらっしゃいませ」と笑顔で見送ったけれど、
その声に対する返事は、ごく短く、曖昧な頷きだった。
(……さっきの会話、何か変だったかな)
そう思ったけれど、美羽はそれ以上考えないことにした。
──◇──
通勤途中、誠司の頭の中には、すでに“仕事”が戻っていた。
(白井の抜けた穴は──誰かが埋めるしかない)
考えるまでもなかった。
営業の現場を知っていて、帳簿の流れも把握していて、なおかつ倫理観を問われても耐えられる人材。
熊田か笠井、あるいは自分。
けれど、熊田も笠井も、上司にはあまり好かれていない。
とくに倫理観の甘さが、たびたび上層部から指摘されていた。
(……なら、自分しかいないだろう)
誠司はそう“悟る”というより、まるで既成事実のように受け入れていた。
その時ふと、朝の美羽の声が、遠く思い出された。
(今日は……ちょっとだけ贅沢なスープ、作ってみました)
温かくて、やわらかくて、ほんの少しはにかんだような笑顔だった。
でも、その言葉も、もう輪郭が曖昧になっていた。
(……ごめん。全部、覚えていたいのに)
誠司は、スマートフォンをポケットに押し込むと、勤めを果たすために歩き出した。
ともだちにシェアしよう!

