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第23話
「──あいつ、やっぱやってたんだな」
「言ったろ? やけに羽振り良かったし、外回りも多すぎたしな」
「ブランド物、女の子に配ってたって噂、あれマジだったんだ……」
出社から数時間。
フロアには、白井の話題が濁った空気のように漂っていた。
誰にともなく口をひそめる者。
あえて聞こえるように話す者。
まるで“前から知ってた”ふうに後出しで語る声もあった。
その中で、誠司だけが──何も言わなかった。
背筋をまっすぐに、淡々とパソコンに向かっている。
誰の言葉にも反応せず、ただ指を動かす。
怒っているようでも、冷めているわけでもない。
ただ、そこに“いるべき人”としての静けさだけがあった。
(……もう、白井さんが何をしてたかなんて、関係ない)
そう胸の中で呟いて、目の前の書類に集中する。
──けれど、背後から別の声が飛び込んできた。
「なあ……課長、降格するかもって聞いた」
「マジ? まあ“監督不行き届き”ってやつだろ。最近、上もうるさいしな」
「ってことは……ポスト、空くのか?」
“ポスト”という一語が、誠司の耳に引っかかる。
けれど、すぐに視線を画面へ戻す。
(……関係ない)
そう、思った。
いや──思い込もうとした。
この会社は根強い年功序列。
ポジションが空いたところで、社外から“それなりの人”が入ってくるのが常。
実績があっても、業務が回せても、
誠司のような若手には、そうそう順番は回ってこない。
(どうせ、今回もそうだ)
そう、自分に言い聞かせる。
……けれど。
胸の奥で、わずかに波紋が広がっていたのも事実だった。
(……もし、もし万が一、自分が選ばれるなら)
そのときは、きっと。
全力でやり遂げる覚悟なら──もう、できている。
昼前。
誠司のデスクに、一本の内線が入る。
「部長が、青木さんと熊田さん、笠井さんを呼んでいます。会議室Aです」
「うぇ〜い、来たなコレ。白井の引き継ぎ案件でしょ」
声のする方を向くと、熊田が椅子の背にもたれて伸びをしていた。
「……仕事増やすなら給料上げてくださいよ、マジで」
「このタイミングでそれ言う?」笠井が笑いながら立ち上がる。
「でもまあ、引き継ぎだろうな。あの人、数だけは抱えてたしな」
誠司はふたりのやりとりに、小さく頷いた。
「……行こうか」
3人で会議室へ入ると、部長が資料を手にして待っていた。
その資料は3部──
けれど、誠司の前にだけ、何も配られなかった。
「では、白井の取引先について」
部長が口を開く。
「熊田くんには、この11社。笠井くんはこの10社。詳細は資料に記載されている」
「は〜い、がんばりまーす」
「うわ、よりによって面倒くさいとこ引いた……」
資料を手に取るふたりを横目に、
誠司は──少しだけ首をかしげた。
(……自分は?)
なぜ、何も言われないのか。
その小さな違和感に、胸の奥でざわめきが広がる。
そのとき、部長がふと誠司の方へ視線を向けた。
「青木くん──少し、残ってもらえるか」
「……え?」
熊田と笠井が同時に顔を上げる。
「えっ、俺らだけ先に出てっていいんですか?」
「お願いします」
部長の口調は穏やかだったが、
そこには明らかに“何かが違う”空気が漂っていた。
資料を手にしたふたりが部屋を出ていくと、会議室には誠司と部長だけが残った。
「……驚かせてしまったかな」
「いえ。ただ、引き継ぎがないのが、少し気になって」
部長はゆっくりと頷いた。
「実は──君を、社長に推薦しようと思っている。
空いた“課長職”に、だ」
誠司は、思わず息を呑んだ。
時間が一瞬、止まったような気がした。
「……僕、が……?」
「白井の件での判断、冷静な対応。
過去の実績と、社外評価、そして──君の“地に足のついた考え方”は、
誰よりも私が知っているつもりだ」
誠司は、すぐには言葉を返せなかった。
部長は続ける。
「もちろん、社長の最終判断次第ではあるが……
私は君を推すつもりで動いている。心の準備だけは、しておいてくれ」
その言葉を、誠司は正面から受け止めた。
どこかで「そんな未来は来ない」と決めつけていた。
でも今、それが目の前に差し出されようとしている。
──けれど。
その瞬間、胸に浮かんだのは──
(……家で、待っている“妻”のことだった)
この選択は、もう“自分だけのこと”じゃない。
責任も、視線も、すべてが変わっていく。
それを、誠司は本能的に感じていた。
だからこそ──
「……ありがとうございます」
誠司は深く、まっすぐに頭を下げた。
その声には、もう迷いはなかった。
部長室を出て、扉が静かに閉まる。
その瞬間、思っていた以上に深く息を吐いていた自分に気づく。
推薦──課長職──
それらの言葉が、まだ胸の奥でふわふわと反響している。
現実感があるようで、ない。
歩いているはずの足が、宙を滑っていくような感覚だった。
ふと、突き当たりの窓が目に入る。
誠司は、吸い寄せられるように歩き、
午後の光に包まれた窓辺で、外を見つめた。
その光の向こうには──
(……今、美羽さんは、何をしてるだろう)
そう思ったとたん、胸の奥に、じんわりと温かさが灯る。
朝の食卓。
ぎこちなくも一生懸命に作られた朝ごはん。
「いってらっしゃいませ」と笑ってくれた小さな声。
今ごろ、掃除でもしてるのか。
それとも、あのテーブルで紅茶でも淹れているのか。
(……帰ったら、ちゃんと伝えよう)
(推薦されたこと。驚かせるかもしれないけど……)
そう思った瞬間、誠司の視線は自然と“遠くの誰か”へと繋がっていた。
──そして、物語は静かに、“彼女の時間”へと移っていく。
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