25 / 59
第24話
「こんにちは〜、回覧板持ってきましたよ〜」
チャイムの音に気づいて玄関を開けると、
そこに立っていたのは、ふっくらとした笑顔の年配の女性だった。
「……あっ、はい。ありがとうございます」
「あなた、新しく来た奥さんね? このおうちの……ええと、青木さん、だったかしら?」
「はい、あの……美羽と申します」
名前を告げると、女性は目を細めて、優しく頷いた。
「まあまあ、美羽ちゃん。可愛らしい名前ねぇ。
そういえば、ご主人が越してきたとき、ちゃんと挨拶に来てくれてね。
“妻が来る予定でして”って、ひとりで丁寧に荷物も運んでたわよ」
(……誠司さんが)
「きちんとしてて、感じのいい方だったわ。
黙って黙々と動いてたけど、ああいう人が一番信頼できるのよ。
お礼も、すごく丁寧だったしねぇ」
誠司の知らなかった一面を、ふいに誰かが話してくれる。
それだけで、美羽の胸の奥に、ぽっと温かいものが広がっていった。
(──やっぱり、優しい人だ)
「そうそう、あそこの角にパン屋さんができたの、ご存じ?
朝は焼きたてが並ぶのよ〜。裏路地にいる犬、ちょっと吠えるけど慣れると可愛いの。
うちのポメラニアン、“バター”っていうのよ」
「……バターちゃん?」
「そう、“食べられちゃいそうでしょ?”って娘が言ってたわ。ふふ、パン屋さんにピッタリな名前よね」
「……とても可愛いですね」
笑いながら話すその人の声に、美羽はそっと微笑んだ。
ほんの少し前までは、誰とも言葉を交わさない日々だった。
名前を呼ばれることも、どこにいても“仮”の存在のようだった自分が、
こうして“この町の誰か”として話しかけられる──
その事実が、ただうれしかった。
「じゃあ、またね、美羽ちゃん。パン屋さん、今度行ってみてね!」
「はい、ありがとうございます」
扉が閉まったあとも、胸にはあの声の余韻が、あたたかく残っていた。
──スマートフォンに通知が届いたのは、それからすぐのことだった。
《今、外回りの途中で少し家に寄れそうなんだけど、帰っても大丈夫かな?》
(……誠司さん)
一瞬で、心臓が跳ねた。
文字を見ただけで、何かが動き出す。
(少しだけでも──会えるんだ)
たったそれだけのことなのに、胸の奥がじんわりと熱くなる。
(何か出せるもの……喜んでくれるもの、あるかな)
そう思った瞬間、さっきのおばさんの声が頭の中でよみがえった。
──「角にできたパン屋さん、朝は焼きたてが買えるのよ」
(……行ってみよう)
迷いはなかった。
エコバッグをつかみ、財布を手に取り、急いで靴を履く。
「行ってきます──」
小さく声をかけて玄関を出た瞬間、冷たい風が頬をかすめた。
でも、胸の奥はあたたかいままだった。
(今からでも、間に合うかな)
パンの焼ける匂い。誠司の笑顔。
それを想像するだけで、自然と足が速くなる。
(──美羽じゃなくてもよかったかもしれない)
(でも今日だけは、“僕”でよかったって、思いたい)
そう思いながら、白い看板のある角を曲がる。
ふわりと漂う、焼きたてのパンの香り。
走る足音が、やわらかな朝の町に響いていた。
店先には、小さな行列ができていた。
ショーケースには、ふっくらとしたパンがずらりと並び、温かな湯気がガラスをくもらせている。
(……どれがいいかな)
“くるみとチーズのパン”──おばさんが言っていたそれは、すぐに見つかった。
でもその隣には、バターの香りが立つクロワッサン、
ふわふわのミルクパン、ほんのり甘いくるみロール……。
(……全部美味しそう)
気づけば、トレイの上には5つもパンが並んでいた。
「どれも違った味なので、楽しんでくださいね」
レジの女性が笑いかけてくれる。
美羽は、少し戸惑いながらも──小さく笑って、頷いた。
「……ありがとうございます」
袋を手に、店を出たとき。
足元で、小さな鳴き声がした。
「わん……!」
見ると、塀の向こうから、小さな白い犬が顔を出している。
「……あっ、あなたが“バター”ちゃん?」
耳をぴくりと動かし、しっぽを振るポメラニアン。
あのおばさんが話していた、あの犬だ。
(本当に、いたんだ……)
その偶然が、胸の奥をふっと緩ませる。
「……あのね、パンを買わせてもらったよ。
喜んでくれるといいんだけど……」
犬は小さく「くぅん」と鳴いた。
それだけで、心のなかに、そっと火が灯る気がした。
家に戻ると、美羽はすぐにエプロンを手に取った。
買ってきたパンをお皿に移し、コーヒーを淹れる準備。
慣れない手つきでキッチンを行ったり来たり。
そして──ふと、洗面所の鏡の前で、立ち止まる。
髪が、少しだけ乱れていた。
(……整えなきゃ)
ブラシで前髪を直し、サイドを軽くまとめる。
頬にかかる毛を指先でなぞるだけで、ほんの少し、表情が変わった。
(……僕、何やってるんだろ)
ただ帰ってくるだけなのに。
そう思った。
でも、それを止める理由もなかった。
(少しでも、ちゃんとした自分で迎えたかっただけ)
キッチンから、コーヒーの落ちる音が聞こえてきた。
その音が、静かに、部屋の中をあたためていた。
ともだちにシェアしよう!

