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第24話

「こんにちは〜、回覧板持ってきましたよ〜」 チャイムの音に気づいて玄関を開けると、 そこに立っていたのは、ふっくらとした笑顔の年配の女性だった。 「……あっ、はい。ありがとうございます」 「あなた、新しく来た奥さんね? このおうちの……ええと、青木さん、だったかしら?」 「はい、あの……美羽と申します」 名前を告げると、女性は目を細めて、優しく頷いた。 「まあまあ、美羽ちゃん。可愛らしい名前ねぇ。 そういえば、ご主人が越してきたとき、ちゃんと挨拶に来てくれてね。 “妻が来る予定でして”って、ひとりで丁寧に荷物も運んでたわよ」   (……誠司さんが)   「きちんとしてて、感じのいい方だったわ。 黙って黙々と動いてたけど、ああいう人が一番信頼できるのよ。 お礼も、すごく丁寧だったしねぇ」   誠司の知らなかった一面を、ふいに誰かが話してくれる。 それだけで、美羽の胸の奥に、ぽっと温かいものが広がっていった。 (──やっぱり、優しい人だ)   「そうそう、あそこの角にパン屋さんができたの、ご存じ? 朝は焼きたてが並ぶのよ〜。裏路地にいる犬、ちょっと吠えるけど慣れると可愛いの。 うちのポメラニアン、“バター”っていうのよ」 「……バターちゃん?」 「そう、“食べられちゃいそうでしょ?”って娘が言ってたわ。ふふ、パン屋さんにピッタリな名前よね」 「……とても可愛いですね」   笑いながら話すその人の声に、美羽はそっと微笑んだ。 ほんの少し前までは、誰とも言葉を交わさない日々だった。 名前を呼ばれることも、どこにいても“仮”の存在のようだった自分が、 こうして“この町の誰か”として話しかけられる── その事実が、ただうれしかった。   「じゃあ、またね、美羽ちゃん。パン屋さん、今度行ってみてね!」 「はい、ありがとうございます」   扉が閉まったあとも、胸にはあの声の余韻が、あたたかく残っていた。     ──スマートフォンに通知が届いたのは、それからすぐのことだった。 《今、外回りの途中で少し家に寄れそうなんだけど、帰っても大丈夫かな?》   (……誠司さん) 一瞬で、心臓が跳ねた。 文字を見ただけで、何かが動き出す。 (少しだけでも──会えるんだ)   たったそれだけのことなのに、胸の奥がじんわりと熱くなる。 (何か出せるもの……喜んでくれるもの、あるかな) そう思った瞬間、さっきのおばさんの声が頭の中でよみがえった。 ──「角にできたパン屋さん、朝は焼きたてが買えるのよ」   (……行ってみよう) 迷いはなかった。 エコバッグをつかみ、財布を手に取り、急いで靴を履く。 「行ってきます──」   小さく声をかけて玄関を出た瞬間、冷たい風が頬をかすめた。 でも、胸の奥はあたたかいままだった。 (今からでも、間に合うかな) パンの焼ける匂い。誠司の笑顔。 それを想像するだけで、自然と足が速くなる。   (──美羽じゃなくてもよかったかもしれない) (でも今日だけは、“僕”でよかったって、思いたい)   そう思いながら、白い看板のある角を曲がる。 ふわりと漂う、焼きたてのパンの香り。 走る足音が、やわらかな朝の町に響いていた。     店先には、小さな行列ができていた。 ショーケースには、ふっくらとしたパンがずらりと並び、温かな湯気がガラスをくもらせている。 (……どれがいいかな) “くるみとチーズのパン”──おばさんが言っていたそれは、すぐに見つかった。 でもその隣には、バターの香りが立つクロワッサン、 ふわふわのミルクパン、ほんのり甘いくるみロール……。 (……全部美味しそう) 気づけば、トレイの上には5つもパンが並んでいた。   「どれも違った味なので、楽しんでくださいね」 レジの女性が笑いかけてくれる。 美羽は、少し戸惑いながらも──小さく笑って、頷いた。 「……ありがとうございます」   袋を手に、店を出たとき。 足元で、小さな鳴き声がした。 「わん……!」   見ると、塀の向こうから、小さな白い犬が顔を出している。 「……あっ、あなたが“バター”ちゃん?」   耳をぴくりと動かし、しっぽを振るポメラニアン。 あのおばさんが話していた、あの犬だ。 (本当に、いたんだ……) その偶然が、胸の奥をふっと緩ませる。 「……あのね、パンを買わせてもらったよ。  喜んでくれるといいんだけど……」   犬は小さく「くぅん」と鳴いた。 それだけで、心のなかに、そっと火が灯る気がした。     家に戻ると、美羽はすぐにエプロンを手に取った。 買ってきたパンをお皿に移し、コーヒーを淹れる準備。 慣れない手つきでキッチンを行ったり来たり。 そして──ふと、洗面所の鏡の前で、立ち止まる。   髪が、少しだけ乱れていた。 (……整えなきゃ)   ブラシで前髪を直し、サイドを軽くまとめる。 頬にかかる毛を指先でなぞるだけで、ほんの少し、表情が変わった。   (……僕、何やってるんだろ) ただ帰ってくるだけなのに。 そう思った。 でも、それを止める理由もなかった。 (少しでも、ちゃんとした自分で迎えたかっただけ)   キッチンから、コーヒーの落ちる音が聞こえてきた。 その音が、静かに、部屋の中をあたためていた。

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